市川團十郎 (9代目)
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九代目市川團十郎(くだいめ いちかわ だんじゅうろう、天保9年10月13日(1838年11月29日) - 明治36年(1903年)9月13日)は明治時代に活躍した歌舞伎役者。五代目尾上菊五郎、初代市川左團次とともに、いわゆる「團菊左時代」を築いた。歌舞伎の近代化に努め、劇聖とも呼ばれた。
七代目市川團十郎(寛政3年(1791年) - 安政6年(1859年))の子で、生後まもなく河原崎座の河原崎権之助の養子になる。兄(八代目團十郎)が1854年に自殺したため、團十郎を継ぐことを期待され、1874年(明治7年)市川團十郎を襲名。
文明開化の時代にあって、従来の荒唐無稽な歌舞伎への反省から歌舞伎の革新を志し、明治10年代には時代考証を重視した劇(生きた歴史の意味で「活歴」と呼んだ)に取り組んだ(演劇改良運動を参照)。活歴の興行的な失敗により、古典的な江戸歌舞伎に回帰し、地方のドサ回りに身を落とす体験もした。
しかし、1887年に明治天皇の御前で歌舞伎を演ずるという栄誉に浴する。外務大臣井上馨邸で行われた史上初の天覧歌舞伎で勧進帳などを演じた。俳優の社会的地位の向上にもつながった。
1889年、東京に歌舞伎座が開場されると、尾上菊五郎らとともに大いに劇界を盛り上げ、明治歌舞伎の黄金時代を築いた。同時代に名狂言作者河竹黙阿弥を得て、『高時』・『極付幡随長兵衛』・『河内山と直侍』・『船弁慶』などの数多くの名作を残す。また明治の家の芸とも言うべき新歌舞伎十八番を制定した。晩年は『娘道成寺』をピアノ、バイオリンの演奏で演じるなど最後まで新しい歌舞伎を追求していた。
『仮名手本忠臣蔵』の由良之助、『伽羅先代萩』の荒獅子男之助、『勧進帳』の武蔵坊弁慶、『博多小女郎浪枕』の毛剃など当り役も数多い。そのほとんどが現在の演出の手本となっている。
尾上菊五郎と同年の1903年に死去。