市川團蔵 (8代目)
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八代目市川團蔵(はちだいめ いちかわ だんぞう、明治15年(1882年) - 昭和41年(1966年)6月4日)は歌舞伎役者。本名、市川銀蔵。屋号は三河屋。俳名に寿猿、三猿、市紅。東京生まれ。七代目市川團蔵の次男。
1885年(明治18年)、本名の市川銀蔵の名で初舞台。1896年(明治29年)市川茂々太郎と改名。主として子供芝居に活躍。1908年(明治41年)歌舞伎座『御存鈴ヶ森』の白井権八で、四代目市川九蔵を襲名。その後、初代中村吉右衛門一座に加わり脇役を勤める。1943年(昭和18年)歌舞伎座『毒茶の丹助』の丹助役で、八代目市川團蔵を襲名。 1966年(昭和41年)4月『菊畑』の鬼一と『助六』の意休役で引退。直後の四国巡礼の帰途、小豆島発大阪行きの船上で消息を絶つ。入水自殺と推測される。辞世は「我死なば 香典うけな 通夜もせず 迷惑かけず さらば地獄へ」 『松浦の太鼓』の宝井其角、『石切梶原』の六郎太夫、『河内山』の高木小左衛門など、地味ながらも堅実な演技で舞台を支えた。また、父七代目市川團蔵についての著書『七世市川團蔵』を著し歌舞伎研究に大きな業績を残した。孫九代目市川團蔵に『書写山』の鬼若の型を伝えたことも忘れてはならない