市川團蔵 (7代目)
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七代目市川團蔵(しちだいめ いちかわ だんぞう、1836年(天保7年)3月 - 1911年(明治44年)9月11日)は、幕末から明治にかけて活躍した歌舞伎役者。俳名は三猿、市紅。雅号は市紅庵。屋号は三河屋、三好屋(三芳屋とも)。
江戸生まれ、父は料理人丸屋伊三郎。1839年(天保10年)市川九蔵(のち六代目團蔵)の養子となり市川銀蔵。のち二代目市川茂々太郎。1847年(弘化4年)2月二代目市川白蔵。1854年(安政元年)三代目市川九蔵。この間養父と友に江戸上方の舞台に立つ。九蔵襲名後は名人と呼ばれた四代目市川小團次に師事する。明治以降は九代目市川團十郎・五代目尾上菊五郎と並ぶ技量を持ちながらも両優と衝突し、小芝居や旅回りの舞台に勤め不遇な時期を送る。だが、才能を惜しんだ興行師田村成義の斡旋で團十郎と和解。1897年(明治30年)6月明治座『弓張月源家鏑矢』で七代目市川團蔵を襲名。ようやく真価が認められ團十郎・菊五郎とならぶ名優と評された。晩年の歌舞伎座で演じた『伽羅先代萩』の仁木弾正の演技は名演技と表された。
しわがれ声と鋭い目つきが特色で、当り役は、前述の仁木弾正のほか、小團次直伝の『佐倉義民伝』の宗吾・光然。ほか、『馬盥の光秀』の明智光秀・『忠臣蔵』の師直・『四谷怪談』の直助権兵衛・『菅原伝授手習鑑・寺子屋』の松王など。娟介な性格で周囲とのトラブルは絶えなかったが、芸熱心で、敵対していた團十郎もその点は高く評価していた。『義経千本桜』の知盛では、目に紅をつけて血走った様を演じ目を悪くしても止めなかったり、仁木では普通五代目松本幸四郎(仁木役の型を完成した)に敬意を表して眉尻にホクロをつけるのを、「幸四郎を見せるのではなく仁木を見せるんだ」と決してホクロを付けなかった。その仁木が花道のスッポンからせり上がるとき、額に紅を一滴たらし反身になって出、前を向くと額から紅がたらりと流れて、凄みをみせたという。
三木竹二の評「・・・頬骨張りし面いかにも一癖あるべく見え、口を結びて折々じろりじろりと上眼に見廻す眼中物凄く、(中略)ねちりねちりと咳枯声にて言伏する呼吸、また一種の妙味あり。大岡を尻目に見て冷笑ひ、後へ引き下がり少し反身になりての引っ込みいへぬいへぬ。」(明治25年1月新富座『天一坊大岡政談』伊賀亮役、『観劇偶評』岩波文庫 平成16年(2004年)6月刊 より) 團蔵型とよばれる独自の型を作り上げ、観客の支持を受けた。死亡記事には「劇界稀に見る娟介の優、技芸以外、何ものにも屈する所」がなかったと賛辞を送っている。
実子は八代目市川團蔵。八代目は『七世市川團蔵』を著して仔細に七代目の芸を分析している。