平野謙 (評論家)
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平野謙(ひらの けん、男性、1907年10月30日-1978年4月3日)は、日本の評論家である。本名平野朗(あきら)。京都市で生まれたが、5歳のときに父の故郷である岐阜県稲場郡那加村に転居する。岐阜中学校から名古屋の旧制第八高等学校に進学し、本多秋五や藤枝静男と知り合う。八高から東大に進学して上京し、日本プロレタリア科学研究所にはいり、プロレタリア文化運動に関係する。しかし、間もなく運動は壊滅したので、その時代はあまり業績はない。このとき、のちに共産党のスパイ査問事件の当事者となる小畑達夫と連絡をもつ。その後、戦時中は「身は売っても芸は売らぬ」をひそかな志としていたが、情報局に嘱託として勤務し、演説の原稿などの起草をした。
戦後、本多秋五・埴谷雄高・荒正人・佐々木基一・小田切秀雄・山室静と雑誌『近代文学』を創刊し、新しい文学をめざした。この時期は、蔵原惟人と小林秀雄とを模範とするというところに彼らの特徴が現れていた。平野は、その中で積極的に文学状況に対して発言し、「小林多喜二と火野葦平とを表裏一体としてとらえる」ことを課題とした。この宣言から、中野重治や宮本顕治らといわゆる〈政治と文学〉論争がおき、戦前のプロレタリア文学の再検討の機運をつくった。