広大院
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
広大院(こうだいいん、安永2年6月18日(1773年8月6日) - 弘化元年11月10日(1844年12月19日))は江戸時代後期の女性で、11代将軍・徳川家斉正室(御台所)。実父は薩摩藩8代藩主・島津重豪、実母は側室・市田氏(お登勢の方)。市田氏は薩摩藩大坂蔵屋敷の足軽という下級武士階級の出身であるとされるが異説もある。養父は近衛経熙。実名は寧姫、篤姫、茂姫。後に天璋院が「篤姫」を名乗ったのは広大院にあやかった物である。
目次 |
[編集] 生涯
一橋治済の息子・豊千代(後の徳川家斉)と早くに婚約していたが、徳川家基の急逝で豊千代が次期将軍と定められた際、この婚約が問題となった。将軍家の正室は五摂家か宮家の姫というのが慣例で、大名の娘、しかも外様大名の姫というのは全く前例がなかったからである。このとき、この婚約は重豪の義理の祖母に当たる浄岸院の遺言であると重豪は主張した。浄岸院は徳川綱吉・吉宗養女であったため幕府側もこの主張を無視できず、このためこの婚儀は予定通り執り行われることとなった。しかし将軍家の名目をたてるため、島津家と縁続きであった近衛家の養女となり「近衛寔子(このえただこ)」として結婚することとなったのである。
この結婚により、島津重豪は前代未聞の「将軍の舅である外様大名」となり、後に「高輪下馬将軍」といわれる権勢の基となった。一方、実母である市田氏はその権勢により弟の市田盛常を薩摩藩一所持格(本来島津一族でないとなれない地位)に取り立て、同じ重豪側室で島津斉宣の母である公家の娘・堤氏(お千万の方)を江戸から鹿児島に追いだし、自らは重豪の正室同様に振る舞ったのである。このような市田一族による薩摩藩政の私物化は後の近思録崩れの原因の一つとなった。
寛政8年(1796年)には家斉の五男・徳川敦之助を産む。御台所が男子を出生するのは2代将軍・徳川秀忠正室お江与の方以来であった。但し、その3年前に側室が産んだ敏次郎(後の家慶)が将軍家世子と定められていたため、敦之助は御三卿の一つ・清水徳川家の養子となった。この慶事により茂姫、及び島津重豪の威勢はますます盛大な物となった。が、敦之助はわずか3年後の寛政11年(1799年)に亡くなってしまう。また、寛政10年(1798年)にも子を産むが流産してしまっている。
このころには驕慢な振る舞いの多い茂姫を家斉は厭うようになり、大勢いる側室たちに寵愛を奪われ、その後2度と家斉の子供を産むことはなかった。
天保8年(1837年)、夫・家斉が隠退して大御所となって西の丸に移ると茂姫も西の丸に移り、「大御台様」と称せらるようになる。
天保12年(1841年)、夫・家斉の死去に伴い落飾して「広大院」を名乗る。翌年従一位の官位を授かり、以後「一位様」と呼ばれるようになる。
晩年には、家斉側室の一人・お美代の方が家斉の娘・溶姫(母はお美代の方)を生母とする前田慶寧を次期将軍に擁立せんと企む陰謀を阻止するが、これが最後の御台所らしい行動であった。
1844年に死去。法名「広大院殿超誉妙貞仁大姉」。墓所は増上寺。夫の家斉とは別の寺に葬られた。
[編集] 墓所
戦後、増上寺・徳川家墓所が西武鉄道に売却された際に広大院の墓も発掘されたが、身長は143.8cmであった。ちなみに広大院は生前は美女で知られていたという。
また彼女の墓所には壮麗な八角塔が建てられていたのだが、この発掘のどさくさに紛れ、この墓塔は行方不明になったままである。
[編集] 外部リンク
[編集] 関連書籍
- 『骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと』東京大学出版会 ISBN 4130610740