建築設計競技
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建築設計競技(けんちくせっけいきょうぎ)とは、複数の設計者に設計案を出させ、優れたものを選ぶこと。コンペと略される、競技設計ともいう。
建造物を造る際に誰に設計を頼むかという問題に対して、大まかには施主が指名する方式と、設計者を公募する方式が考えられる。前者は(歴史的にも)広く見られるもので、例えば国王がお気に入りの建築家に設計させるものから、出入りの棟梁に自宅の改築を頼んだり、知り合いの建築士に設計を依頼したり、大小さまざまなものが見られる。一方、民主主義的な観点から、公共的な建物の設計者は複数案から検討し、公平な立場から選定すべきであるという主張があり、設計競技(コンペ)が行われることがある。
なお、公募により行われる場合(公開コンペ)と、複数の建築家を指名しその中で競わせる場合(指名コンペ)がある。また完成した実施案として提出する前に、まず構想・コンセプトを問うアイディアコンペという形式で行われる場合もある。
建築史上では、イタリア・ルネサンスの時期に行われたコンペが有名であり、後世の規範にもなった。コンペのあり方については様々な議論を呼んできたが、今日、公共的な建造物を造る際にはコンペで設計者を選ぶ方式が望ましいと考えられている。(コンペの開催自体により費用が増大する面もある)
[編集] 海外のコンペ事例
- フィレンツェ大聖堂のドーム
- 当時の技術では困難とも考えられた大事業であったが、コンペで当選したブルネレスキの案が採用され、建設が進められた。
- オペラ座(パリ)
- 国会議事堂(ロンドン)
- 国連本部(ニューヨーク)
[編集] 日本のコンペ事例
- 日本における建築設計競技の初期の事例である。当時の中堅建築家が指名され、それぞれ設計案を提出した(指名コンペ)。この当時は設計案の著作権という発想は全くなく、応募案の中から選んだものに審査員などが大きく手を加えることは当然と考えられていた。
- 大正8年に公開コンペが行われたが、1等当選案と実際に建設された議事堂(昭和11年竣工)では大きな違いがある。
- 広島カトリック聖堂
- 第2次世界大戦後の1948年にコンペが行われたが、1等当選作は該当なしとされ、審査員の村野藤吾自らが設計を行うことになったため、コンペの公平性などについて大きな議論を呼んだ。
- すでに大御所だった丹下健三が選ばれた。議事堂が取り囲む市民広場などが実現したが、そのシンボリックで威圧的な超高層のフォルムに疑問をはさむ声もあった。かれは近隣の新宿パークタワーも手がけ、一帯の超高層ビルのフォルムにある種の秩序を与えた。
- 丹下案についで支持されたのは”ツインタワー”の案であった。機能的には丹下案よりも優れているとも言えたが、審査員からは「首都東京の庁舎としては格調にかける」といった意見も出て採用されなかった。しかし、竣工後には丹下案の格調の高さが「贅沢すぎる」といった批判を生むことになった。
- 関西国際空港ターミナルビル
- 当初国内設計会社らの手で決まりつつあったビル設計案を覆して国際公募コンペが行われ物議をかもした。基本設計コンペは、国内線フロアを国際線の到着と出発フロアで上下から挟み込むパリ空港公団案が勝利をおさめ、それに基づく建築設計コンペではイタリア人のレンゾ・ピアノが勝利した。ただし彼はターミナルビルの周りの建物(鉄道駅やホテル、管理棟、管制塔など)をトータルに設計することはできず、ターミナルビルと周りのビルの不調和には不満を漏らしている。
- 京都駅ビル
- 柳澤孝彦の案が選ばれた。