張鼓峰事件
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張鼓峰事件(ちょうこほうじけん)は1938年(昭和13年、康徳5年)、満州国東南端の張鼓峰で発生したソ連との国境紛争。ソ連側は、これをハサン湖事件(ハーサン湖事件)と呼んだ。
張鼓峰は満州領が朝鮮とソ連領の間に食い込んだ部分にある標高150メートルの丘陵であり、西方には豆満江が南流している。当時ソ連は国境線は張鼓峰頂上を通過していると考え、日本側は張鼓峰頂上一帯は満州領であるとの見解であった。いずれにしても、この方面の防衛を担当していた朝鮮軍第19師団は国境不確定地帯として張鼓峰頂上に兵力を配置していなかった。
1938年7月、張鼓峰頂上にソ連兵が現れ、兵力が次第に増強されてきたため、朝鮮軍第19師団がこれを追い払ったところ、8月6日になってソ連軍大部隊が張鼓峰頂上付近に総攻撃をかけてきた。その北方の沙草峰でもソ連軍が攻勢を仕掛け、両高地をめぐって激しい争奪戦が展開された。ソ連軍がこの時期に大攻勢に出た背景はいろいろに取り沙汰されているが、はっきりしたことはわからない。
8月11日になってモスクワで停戦が合意され、第19師団が両高地頂上を死守していた現状維持が決まった。この激しい紛争で日本側が戦死526名、負傷者914名の損害を出し、ソ連側も冷戦終結後になって公開された資料によれば戦死792名、負傷者2,752名を出している。
なお、この戦闘に加わった歩兵第75連隊の連隊長は佐藤幸徳大佐であった。