ノモンハン事件
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ノモンハン事件(のもんはんじけん)は、1939年5月から9月にかけて、満州国とモンゴル人民共和国の間の国境線をめぐって発生した軍事衝突。満州国軍とモンゴル人民共和国軍の参加もあったが、実質的には両国の後ろ盾となった大日本帝国陸軍とソビエト連邦軍の主力の衝突が勝敗の帰趨を決した。当時の大日本帝国とソビエト連邦の公式的見方では、この衝突は一国境紛争に過ぎないというものであったが、モンゴル国のみは、人民共和国時代よりこの衝突を「戦争」と称している。以上の認識の相違を反映し、この戦争について、日本および満洲国は「ノモンハン事件」、ソ連は「ハルハ河の事件, 出来事」とよび、モンゴル人民共和国のみがハルハ河戦争(ハルヒン・ゴル戦争)と称している。
この衝突に対して日本・満洲側が冠しているノモンハンという名称は、清朝が雍正十二年(1734年)に外蒙古(イルデン・ジャサク旗・エルヘムセグ・ジャサク旗)と、内蒙古(新バルガ旗)との境界上に設置したオボーの一つ「ノモンハン・ブルド・オボー」に由来する。このオボーは現在もモンゴル国のドルノド・アイマクと中国内モンゴル自治区北部のフルンブイル市との境界上に現存し、大興安嶺の西側モンゴル草原、フルンブイル市の中心都部ハイラル区の南方、ハルハ河東方にある。
いっぽうソ連・モンゴル側が冠している「ハルハ河」とは、戦場の中央部を流れる河川の名称である。綴りはモンゴル式では「Халхын гол」、ロシア式では「Халкин-Гол」ないし「Халхин-Гол」となる。
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[編集] 概要
清朝が雍正十二年(1734年)に定めたハルハ東端部(外蒙古)とホロンバイル草原南部の新バルガ(内蒙古)との境界は、モンゴルの独立宣言(1913年)以後も、モンゴルと中国の歴代政権の間で踏襲されてきたが、1932年に成立した満洲国は、ホロンバイルの南方境界について、従来の境界から10-20キロほど南方に位置するハルハ河を新たな境界として主張、以後この地は国境紛争の係争地となった。
1939年にこの係争地でおきた両国の国境警備隊の交戦をきっかけに、日本軍とソ連軍がそれぞれ兵力を派遣し、交戦後にさらに兵力を増派して、大規模な戦闘に発展した。
5月の第一次ノモンハン事件と7月から8月の第二次ノモンハン事件にわかれ、第二次でさらに局面の変転がある。第一次ノモンハン事件は両軍あわせて3500人規模の戦闘で、日本軍が敗北した。第二次ノモンハン事件では、両国それぞれ数万の軍隊を投入した。7月1日から日本軍はハルハ川西岸への越境渡河攻撃と東岸での戦車攻撃を実施したが、いずれも撃退された。このあと日本軍は12日まで夜襲の連続で東岸のソ連軍陣地に食い入ったが、断念した。7月23日に日本軍が再興した総攻撃は3日間で挫折した。その後戦線は膠着したが、8月20日にソ連軍が攻撃を開始して日本軍を包囲し、31日に日本軍を戦場から一掃した。
停戦交渉はソ連軍の8月攻勢の最中に行われ、9月16日に停戦協定が結ばれた。
[編集] 開戦の背景
[編集] 国境紛争
モンゴル側は1734年以来外蒙古と内蒙古の境界を為してきた、ハルハ河東方約20キロの低い稜線上の線を国境として主張したのに対し、1932年に成立した満州国はハルハ河をもって境界線として主張した。満州国、日本側の主張する国境であるハルハ河からモンゴル・ソ連側主張の国境線までは、草原と砂漠である。土地利用は遊牧のみであり、国境管理はほぼ不可能で、付近の遊牧民は自由に国境を越えていた。
本事件の係争地となった領域がはじめて具体的に行政区画されたのは、清代、雍正年間のことである。従前、この地はダヤン・ハーンの第七子ゲレンセジェの系統を引くチェチェン・ハン部の左翼前旗および中右翼旗など、ハルハ系の諸集団の牧地であった。1730年代、清朝が新附のモンゴル系、ツングース系の諸集団を旧バルガ、新バルガのふたつのホショー(旗)に組織し、隣接するホロンバイル草原に配置した。雍正十二年(1734年)、理藩院尚書ジャグドンによりハルハと、隣接する新バルガの牧地の境界が定められ、その境界線上にオボーが設置された。本事件においてモンゴル側が主張した国境は、この境界を踏襲したものである。
本事件の名称の由来となったノモンハンは、左翼前旗の始祖ペンバの孫チョブドンが受けたチベット仏教の僧侶としての位階の呼称に由来し、チョブドンの墓や、ハルハと新バルガとの境界に設置されたオボーのひとつどにも、チョブドンの受けたこの「ノモンハン」の称号が冠せられている。
モンゴルは、1912年の辛亥革命を好機として、ジェプツンダンパ八世を君主に擁する政権を樹立した。ただしモンゴルの全域を制圧する力はなく、モンゴル北部(ハルハ四部プラスダリガンガ・ドルベト即ち外蒙古)のみを確保するにとどまり、モンゴルの南部(内蒙古)は中国の支配下にとどまることとなった。バルガの2旗が位置するホロンバイル草原は、地理的には外蒙古の東北方に位置するが、この分割の際には中国の勢力圏に組み込まれ、東部内蒙古の一部を構成することとなった。その後、モンゴルではジェプツンダンパ政権の崩壊と復活、1921年の人民革命党政権の成立、1924年の人民共和国への政体変更などがあったが、これらモンゴルの歴代政権と、内蒙古を手中におさた中華民国歴代政権との間では、ハルハの東端と新バルガの境界について、問題が生ずることはなかった。
ところが旧東三省と東部内蒙古を領土として1932年に成立した満洲国は、新バルガの南方境界として、新たにハルハ河を主張、本事件の戦場域は、「国境紛争の係争地」となった。モンゴルと満洲国の国境画定交渉は断続的に行われたが、1935年以降途絶した。
満洲、モンゴルの両当事者とも、この係争を小競り合い以下の衝突にとどめるべく、話し合いによる解決を模索しようとしたが、両国の後ろ盾となっている日本、ソ連は、この時期それぞれ、極東方面において相手を叩く口実を探しており、「話し合いによる解決」を模索していた満州国・モンゴルの代表者たちをそれぞれソ連、日本に通じたスパイとして断罪、粛清したのち、大規模な軍事衝突への準備を推し進めてゆく。
[編集] 「満ソ国境紛争処理要綱」
1938年に起こった張鼓峰事件は、満州とソ連の国境でおこった紛争だったが、関東軍・満州国軍ではなく日本の朝鮮軍が戦った。この事件でソ連側が多くを得たことに不満を感じた関東軍は、係争地を譲らないための方針を独自に作成した。それが「満ソ国境紛争処理要綱」である。
「満ソ国境紛争処理要綱」は辻政信参謀が起草し、1939年4月に植田謙吉関東軍司令官が示達した。要綱は、「国境線明確ならざる地域に於ては、防衛司令官に於て自主的に国境線を認定」し、「万一衝突せば、兵力の多寡、国境の如何にかかわらず必勝を期す」として、日本側主張の国境線を直接軍事力で維持する好戦的方針を示していた。この要領を東京の大本営は黙認し、政府は関知しなかった。
[編集] 戦争の経過
[編集] 第一次ノモンハン事件(5月11日-5月31日)
係争地では満州国軍とモンゴル軍がパトロールしており、たまに遭遇、交戦することがあった。5月11日、12日の交戦は特に大規模なものであったが、モンゴル軍、満州国軍がともに「敵が侵入してきたので損害を与えて撃退した」と述べているため、真相不明である。
第23師団長の小松原道太郎中将は、モンゴル軍を叩くために東八百蔵中佐の捜索第23連隊と2個歩兵中隊、満州軍騎兵からなる部隊を送り出した。5月15日に現地に到着した東支隊は、敵が既にいないことを知って引き上げた。しかし、支隊の帰還後になって、モンゴル軍は再びハルハ川を越えた。
この頃、上空では日本軍とソ連軍の空中戦が頻発し、日本機は自国主張の国境を越えてハルハ川西岸の陣地に攻撃を加えた。両軍とも、敵の越境攻撃が継続中であると考え、投入兵力を増やすことを決めた。
5月21日に小松原師団長は再度の攻撃を命令した。出動した兵力は、歩兵第64連隊第3大隊と連隊砲中隊の山砲3門、速射砲中隊の3門をあわせて1058人、前回に引き続いて出動する東捜索隊220人(装甲車1を持つ)、輜重部隊340人、さらに満州国軍騎兵464人が協同し、総兵力2082人であった。指揮は歩兵第64連隊長山県武光大佐がとった。
ソ連軍も部隊を送り込み、25日にハルハ川東岸に入った。その兵力は、第11戦車旅団に属する機械化狙撃大隊と偵察中隊からなり、装甲車としては強力な砲を装備するBA-6装甲車16両を持ち、兵力約1200人であった。これにモンゴル軍第6騎兵師団の約250人をあわせ、ソ連・モンゴル軍の総兵力は約1450人、装甲車39両、自走砲4門を含む砲14門、対戦車砲6門であった。歩兵・騎兵の数は少ないが、火砲と装甲車両で日本・満州国軍に勝っていた。ソ連軍の指揮官は機械化狙撃大隊長のブイコフ大佐で、歩兵の3個中隊のうち第2中隊を北に、第3中隊を南に置き、正面の東をモンゴル軍に守らせて、半円形に突出する防衛線を作った。西岸には第1中隊を控えさせ、砲兵を配した。
山県はソ連軍が刻々増強されつつあることを知っていたが、敵兵力を実際より少なく見積もり、包囲撃滅作戦を立てた。その作戦では、主力は山県が直率して北から進み、東と南には満州軍騎兵と小兵力の日本軍歩兵を配する。ハルハ川渡河点3か所のうち、北と南はそれぞれ両翼の日本軍部隊が制圧する。中央の橋を封鎖するために、東捜索隊が先行して敵中に入り、橋を扼する地点に陣地を築く。こうして完全に包囲されたソ連・モンゴル軍を破砕し、その後ハルハ川を越えて左岸(西岸)の陣地を掃討するというものであった。
先行する東捜索隊は、5月28日の早朝にほとんど抵抗を受けることなく突破に成功し、橋の1.7キロ手前に陣取った。これとともに後方陣地への航空攻撃、主力部隊の前進がはじまった。戦闘開始直後、ソ連・モンゴル軍は混乱して一歩退いた。攻撃をほとんど受けなかった正面と南の部隊も退却して兵力を抽出し、西岸から渡ってきた部隊とともに山県・東の部隊に立ち向かった。さらにこの日のうちにソ連の第36自動車化狙撃師団の第149連隊がタムスクから自動車輸送で到着しはじめた。日本軍の前進は第一線の陣地を抜いたところで停止し、東支隊は孤立した。29日にソ連・モンゴル軍は東捜索隊への攻撃を強め、その日の夕方に全滅させた。日本軍は30日に小兵力の増援を受け取り、ソ連・モンゴル軍は次の戦闘に備えて防衛線を西岸に移した。しかしもはやめだった戦闘は起きず、日本軍は捜索隊の遺体と生存者を収容して6月1日に引き上げた。ハルハ川東岸は再びソ連・モンゴル軍の制圧下に帰した。
この間、日本軍の戦闘機は終始空中戦で優勢を保ち、ソ連軍の航空機を数十機撃墜し、損失は軽微であった。また、日本の戦闘機と軽爆撃機はモンゴル領内の陣地と飛行場を攻撃した。モンゴル軍の航空機はわずかで、満州国軍は航空戦力を持たなかった。
[編集] 第二次ノモンハン事件
[編集] 日本軍による渡河攻撃と戦車攻撃 (7月1日-6日)
ソ連政府は5月末の交戦を日本の侵略意図の表れとみなし、日本軍の次の攻撃はさらに大規模になると考えた。白ロシア軍管区副司令官のゲオルギー・ジューコフが第57軍団司令官に任命され、この方面の指揮をとることになった。このときジューコフは大規模な増援を要求し、容れられた。
6月17日から連日、増強されたソ連軍航空機が自国主張の国境を越えてカンジュル廟を攻撃し、爆撃は後方のアルシャンにも及んだ。これに対して関東軍は、戦車を中心に各種部隊を増強して反撃する計画を立てた。新たに加わったのは戦車2個連隊と自動車化された歩兵第26連隊(第7師団)からなる安岡支隊で、安岡正臣中将が率いた。作戦にはハルハ川を越えることが含まれていた。大本営は反撃計画を知らされたが、越境攻撃までは知らなかった。27日、日本軍はモンゴル領の後方基地タムスクに大規模な空襲を行った。大本営は空襲を事後に知らされて驚き、昭和天皇を動かして係争地を無理に防衛する必要はないとの大命を29日に発し、敵の根拠地に対する航空攻撃を禁じる参謀総長の指示を出した。
その頃、攻撃のため国境付近に集結しはじめた日本軍に対し、ソ連軍は自国主張の国境を越える強行偵察部隊を送り出して交戦した。集結を完了した日本軍は、7月1日に敵の背後を断って撃滅する意図をもって行動を起こした。作戦では、ハルハ川に橋を架けて西岸に渡り、敵の退路を遮断した上で、東岸では北から戦車部隊が攻撃をかける。戦車部隊はそのまま南下し、敵をハイラースティーン(ホルステン)川の岸に追い詰めて殲滅することを企図した。東を封じるのは満州国軍に任せ、今回は南に兵力を送らなかった。
しかし、西岸攻撃のために工兵が用意できた橋は貧弱で、戦車を渡すことができず、それどころか橋を越えた補給継続の見込みも薄かった。そこで、歩兵が西岸に渡り、戦車が東岸に残ることになった。西岸攻撃には第23師団の第23歩兵団長小林恒一少将が師団所属の歩兵第71連隊と第72連隊をもってあたり、安岡支隊から引き抜いた第26連隊と砲兵隊、工兵隊が後続した。東岸の安岡支隊の主力は戦車第3連隊と第4連隊で、自動車化された歩兵1個大隊と、野砲兵1個大隊、工兵1個連隊が属した。東岸にはさらに第64連隊があった。総兵力は約1万5000人であった。
ソ連軍は、前回の戦闘と同様、歩兵戦力で日本軍に劣ったが砲と装甲車両の数で勝った。ソ連軍司令部は、ハルハ川東岸への日本軍の攻撃を予想して、第149自動車化狙撃連隊と第9機械化旅団を置いていた。さらに増援軍にハルハ川を渡河させて日本軍の側面を衝く作戦を立て、第7機械化旅団、第11戦車旅団、第24自動車化狙撃連隊が7月1日にタムスクを発った。
ソ連軍と日本軍はほぼ同じ進路で逆向きの渡河攻撃を計画したわけだが、日本軍が先んじて2日に渡河をはじめ、3日に橋を架けた。渡河に直面したのはモンゴル軍の騎兵第6師団であったが、抵抗らしい抵抗をしなかった。ソ連増援軍は3日に戦場に到着し、南に進んでいた日本軍と接触した。装甲部隊を前にして日本軍の行軍は止まった。午前中の戦闘でソ連軍戦車は果敢に突撃して大損害を出したが、午後には遠巻きにして砲撃を加えるようになり、日本兵の死傷ばかりが増えた。第23師団はその日の夕方に撤退を決め、4日から5日にかけて橋を渡って戻った。
ハルハ川東岸(右岸)では、日本軍が87両の戦車で攻撃をかけた。主に軽戦車からなる戦車第4連隊は、2日夜に装甲部隊による夜襲をかけた。(装甲部隊による夜襲は世界初で、大変珍しい例である。)攻撃は成功をおさめたが、戦局に影響するほどのものではなかった。主に中戦車からなる戦車第3連隊は、翌3日に防御陣地に対する正面攻撃を行って壊滅し、連隊長吉丸大佐は戦車内で戦死した。ソ連軍は4日に反撃をはじめ、6日に日本軍は退却した。装甲部隊の急速な損耗を憂慮した関東軍司令部の判断によって安岡支隊は9日に解隊され、戦車部隊は戦場から引き上げた。
この期間にはソ連軍の航空勢力が増大した。日本の航空偵察は、この戦闘中ずっと「敵軍が退却中である」という誤報を流しつづけ、上級司令部の判断を誤らせた。
[編集] 7月の戦闘と戦線の膠着
渡河攻撃と戦車攻撃が失敗してから、第23師団はハルハ川右岸(東岸)に転じて7月7日に攻撃を再開した。第23師団の主力は安岡支隊への増援・交代の形で新たな戦場に到着し、北から南にハイラースティーン(ホルステン)川に向かって進んだ。別に岡本支隊がハイラースティーン(ホルステン)川の対岸を東から西に進んだ。守るソ連軍の中心は第149自動車化狙撃連隊で、砲兵と第11戦車旅団の支援を受けた。歩兵で日本軍が多く、戦車と砲でソ連軍が多いという戦力比はこの時期も変わらなかった。
このときの日本軍は、小規模な夜襲を全戦線で多数しかけて攻撃を進めた。夜には砲撃が衰え、戦車が最前線から引き上げるので、白兵戦を得意とする日本軍にとって有利であった。少ない兵力で何重もの縦深をとったソ連軍の防衛線は、各所で日本軍の進出を許したが、崩壊には至らず、両軍錯綜の状況が生まれた。平原で姿を暴露することを恐れた日本軍は、朝が近づくと進出地点から引き上げるのを常とした。昼になると攻守逆転し、ソ連の装甲部隊、砲、歩兵が日本の歩兵を攻撃した。ソ連軍は夜襲も実施したが、全体的には日本軍に押され、ゆっくりと陣地を侵食されていった。前線指揮官であるレミゾフ第149自動車化狙撃連隊長は8日に、ヤコブレフ第11戦車旅団長は11日に、戦死した。
しかし、当初きわめて楽観的だった関東軍にとって、この作戦の進捗は満足のいくものではなかった。ソ連軍の砲兵力を除く必要があると考えた関東軍は、内地からの増援と満州にあった砲兵戦力をあわせて、関東軍砲兵司令官内山栄太郎少将の下に砲兵団を編成し、その砲撃でソ連軍砲兵を撃破することにした。砲兵戦力の到着を待つため、日本軍は夜襲による攻撃を12日に停止し、14日までに錯綜地から退いて戦線を整頓した。
砲兵支援下の総攻撃は、7月23日に始まった。内山少将率いる砲兵団は15センチ加農砲から7.5センチ野砲までの82門をもっていたが、このうち西岸のソ連軍砲兵陣地まで届く砲は46門に過ぎなかったうえに、充分な数の砲弾を準備することができなかった。更に、東岸より西岸の方が標高が高かったことが致命傷になった。ソ連側の砲兵は日本側の砲兵を見下ろすかたちで砲撃することができたのである。このため、次第に日本軍砲兵はソ連側の砲撃に圧倒された。またソ連軍は前回の攻撃の末期にあたる7月12日から歩兵の増援を受け取っており、総攻撃はわずかに前進しただけで頓挫した。日本軍は3日間の戦闘で攻勢をあきらめ、冬営に向けた陣地構築に入った。
日本軍は7月25日までに参加兵力の3分の1にあたる約5000人を失った。攻撃を停止した日本軍は、敵の砲撃を避けてハルハ川から離れ、ハイラースティーン(ホルステン)川両岸に西向きに布陣した。北に離れたフイ高地には渡河攻撃を断念したときから小部隊がおかれており、反対側の左翼では限定的な攻撃を行って翼を延伸した。ソ連軍も各所で小規模な攻撃を試みたが撃退され、8月20日まで戦線は膠着状態になった。
8月4日、日本軍はノモンハン戦の指揮のために新たに第6軍を創設し、荻洲立兵中将を司令官に任命した。これより先、ソ連は7月21日に第57狙撃軍団を第1軍集団に改組し、引き続きジューコフに指揮をとらせた。
[編集] ソ連軍の8月攻勢
日本軍が攻勢をとっていた頃から、ソ連軍は後方で兵力と物資の集積を進め、総攻撃を準備していた。だが日本軍は冬営のための物資輸送にも困難をきたしていたため、大きな増援ができなかった。防衛線についていた日本軍部隊は、北から、フイ高地を守備する第23師団捜索隊、ハイラースティーン(ホルステン)川の北にあるバルシャガル高地を守る歩兵3個連隊(歩兵26、63、72の各連隊)、ホルステン川の南にある第8国境守備隊と歩兵第71連隊であった。加えて、ノモンハンから約65キロ南に離れたハンダガヤに第7師団の歩兵第28連隊があった。その陣地は横一線に長く、縦深がなかった。防衛線の左右には満州国軍の騎兵が展開して警戒にあたった。
攻撃側のソ連軍は歩兵と砲の数で倍近くの優位を持ち、加えて戦車498両と装甲車346両を用意した。ソ連軍の作戦は、中央は歩兵で攻撃して正面の日本軍を拘束し、両翼に装甲部隊を集めて突破し、敵を全面包囲しようとするものであった。シェフニコフ大佐が指揮する左翼の北方軍は、第82狙撃師団第601連隊と第7機械化旅団、第11戦車旅団からなり、フイ高地(地名は日本側呼称。以下同じ)の捜索隊を攻撃して南東に進んだ。ペトロフ准将が指揮する中央軍は、歩兵4個連隊と1個機関銃旅団(第82狙撃師団の2個連隊と、第36自動車化狙撃師団の2個連隊、第5機関銃旅団)からなり、ハイラースティーン(ホルステン)の両岸で正面から攻撃をかけた。ポタポフ大佐が指揮する右翼の南方軍は、歩兵3個連隊と機械化旅団、戦車旅団各1個(第57狙撃師団の3個連隊と、第8機械化旅団、第6戦車旅団)からなり、日本の第71連隊を攻撃してハイラースティーン(ホルステン)に向けて北進した。北方軍の北にはモンゴル軍の第6騎兵師団、南方軍の南にはモンゴル軍の第8騎兵師団が付いて警戒にあたった。左右両翼でのソ連軍の優位は圧倒的で、中央でも火力の優勢を保っていた。
8月20日、爆撃と砲撃の後にソ連軍の前進が始まると、満州軍は直ちに敗走し、まずフイ高地の師団捜索隊が孤立した。ジューコフは、この陣地の攻略に手間取ったシェフニコフを21日に解任し、予備を投入して日本軍主力の背後へ進撃させた。捜索隊は24日夜に包囲を脱してソ連側主張の国境の外に退出した。21日には南翼でも南方軍の装甲部隊が日本軍の側面から背後を脅かす位置に進出した。
第6軍司令部は攻勢開始時に未だ後方のハイラルにあり、ようやく8月23日に司令部を戦場付近に進めた。荻野軍司令官はソ連軍の攻勢を知ると、直ちに第28連隊をハンダガヤから呼び寄せ、これに前線から引き抜いた歩兵第26、72、71の諸連隊をあわせて左翼(南)で反撃する作戦を立てた。反撃の開始は8月24日で、ソ連軍の最右翼にある第57狙撃師団第80連隊が、南方軍の装甲部隊とともにこれを迎え撃った。反撃部隊の大部分は予定の日時に攻撃開始位置に到着しなかった。ばらばらに戦闘に参入した部隊は、砲爆撃の支援を欠いたまま正面攻撃を実施した。24日に第72連隊だけで攻撃を行った右翼隊は大損害を出して壊滅した。24、25の両日にわたる左翼隊の攻撃も挫折した。
反撃に兵力を抽出したため、日本軍の側面と背後はがら空きになった。北から回り込んだソ連軍左翼は23日には日本軍の後背に出て、26日にバルシャガル高地の背後にあった砲兵陣地を蹂躙した。南で反撃を退けたソ連軍右翼も、27日にノロ高地を支援する日本軍砲兵部隊を全滅させた。前線の日本軍諸部隊は、背後に敵をうけて大きく包囲され、個々の陣地も寸断されて小さく囲まれた。部隊は夜の間に各個に包囲を脱して東に退出した。すなわち26日夜にノロ高地の第8国境守備隊が後退し、ついで戦場外に退出した。29日夜にはバルシャガル高地の第64連隊が脱出した。第64連隊救援のため小松原師団長が直率した部隊が退いた31日朝をもって、日本軍は係争地から引き下がり、戦闘は終了した。この作戦の間、ソ連陸軍は自国主張の国境線の内にとどまっため、退出した日本軍諸部隊はその線の外で再集結した。
[編集] 停戦成立までの戦闘
ソ連軍は戦場となった係争地を確保し、陣地を築いた。日本軍はソ連・モンゴル側主張の国境線のすぐ外側に防衛の陣を敷いた。関東軍は兵力を増強して攻撃をかける計画を立てた。作戦は、一部兵力によって敵の退路を遮断し、夜襲によってソ連軍の陣地を突破することを目指した。しかしこの段階では、歩兵で勝っていた7月までと異なり、増強を計算に入れたとしても、あらゆる戦力要素が日本軍に不利になっていた。
東京の大本営は、関東軍の楽観的な報告により、8月26、27日まで戦闘が有利に進んでいると認識していた。が、急激な事態の悪化を知り、日本軍が引くことで事態を収拾することを決め、9月3日にノモンハンでの攻勢作戦を中止し係争地から兵力を離すように命じた。
南方のハンダガヤ付近では、増援に来着した歩兵2個連隊を基幹とした片山支隊が8月末から攻撃に出た。この地区で日本軍に対したのはモンゴル軍の騎兵部隊で、9月8日と9日に夜襲を受けて敗走した。9月16日の停戦時に、ハルハ川右岸の係争地のうち主戦場となったノモンハン付近はソ連側が占めたが、ハンダガヤ付近は日本軍が占めていた。
ソ連軍の猛攻の過程で、日本軍の連隊長級の前線指揮官の多くが戦死し、生き残った連隊長の多くも、戦闘終了後に敗戦の責任を負わされて自殺に追い込まれ、自殺を拒否した須見第26連隊長は予備役に編入されるなど、敗戦後の処理も陰惨であった。その一方で独断専行を主導して惨敗を招いた辻政信・服部卓四郎ら関東軍の参謀は、一時的に左遷されたのみで、わずか2年後の太平洋戦争開戦時には陸軍の中央に返り咲いた。また、壊滅的打撃を受けた第23師団の小松原師団長も、事件の1年後に病死したが、これも実質的に自殺に近い状況だったと見られている。
[編集] 航空戦
航空戦の主力となったのは日本軍は九七式戦闘機、ソ連軍はI-153とI-16であった。当初はソ連軍に比べて日本軍搭乗員の練度が圧倒的に上回っており、戦闘機の性能でも、複葉機のI-153に対しては圧倒的な優勢、I-16に対しても、一長一短はあるものの(I-16は武装と急降下速度に優れ、97式戦は旋回性能に優れる)、ほぼ互角であった。また、投入した航空機の数も、当初はほぼ互角であった。そのため、第一次ノモンハン事件の空中戦は、地上戦とは異なり、日本軍の圧倒的な勝利となった。
その余勢を駆って、6月27日、関東軍は陸軍中央に独断で日本側の主張する国境線よりモンゴル側にあるソ連軍のタムスク飛行場を爆撃して、戦術的には大戦果を上げた。しかしこれは国境紛争を全面戦争に転化させかねない無謀な行為だったので、陸軍中央の怒りを買った。
第二次ノモンハン事件に入ると、ソ連軍は日本軍をはるかに上回る数の航空機を動員して、搭乗員の練度で優る日本軍航空部隊を数で圧倒するとともに、スペイン内戦に共和国側の義勇兵として参加してドイツ空軍と戦っていた戦闘経験豊富な搭乗員を派遣し、搭乗員の質でもある程度日本軍に対抗できるようになる。戦術的には、旋回性能の優れた日本軍の九七式戦闘機に対して格闘戦を挑むことを避け、一撃離脱戦法に徹するようになった。これによって日本軍は空中でも苦戦を強いられ、約180機前後の航空機と多くのベテランパイロットを失った。その結果、最後には九七式戦闘機の部隊が枯渇して、旧式な複葉機の九五式戦闘機が投入されるに至った。
後述するように、今日明らかになった資料によればソ連空軍の損害は日本の航空部隊の損害を上回っているので、日本の航空部隊はかなり善戦したとは言えるが、航空機の数がソ連軍の方がはるかに多かったため、最終的に戦場の空を支配していたのはソ連軍であった。特に、主力の九七式戦闘機は、陸軍全体でわずか15個中隊(定数180機/ただし実際の保有数ではない)しかなかったうちの14個中隊がノモンハンに投入され、停戦時になお105機の可動機が展開していたものの、実に152機が失われる大損害を被った。(被撃墜51機・大中破101機・戦死53名とされる) また、九七式戦闘機がソ連空軍機に対して当初は優勢だったことから、陸軍は軽武装で格闘戦重視の軽戦闘機偏重の方向性を一段と強めた。その結果、世界的な風潮であった速度重視の重戦闘機への転換に遅れをとることとなり、その影響は2年あまり後の太平洋戦争に尾を引くことになった。また、若手将校を多数失ったことは太平洋戦争での陸軍戦闘機隊の中核となる人材の不足を招いた。
陸軍中央では紛争の拡大は望んでいなかったため、戦場上空の制空権を激しく争った戦闘機に比べると爆撃機の活動は限定的であり、6月27日関東軍の独断で行われたタムスクのソ連航空基地への越境攻撃はあったものの、重爆撃機隊も含めて地上軍への対地協力を主として行った。紛争後半の8月21日、22日には中央の許可のもとにソ連航空基地群に対する攻撃が行われたが、既にソ連側が航空優勢となった状況では損害も多く、その後は再び爆撃機部隊の運用は対地協力に限定された。他方、ソ連軍の爆撃機による日本軍陣地、航空基地への爆撃は活発であり、7月以降に登場した高速双発爆撃機ツポレフSB-2、四発爆撃機ツポレフTBは日本軍の野戦高射砲の射程外の高空を飛来し、九七式戦闘機での要撃も容易ではなく大いに悩まされたが、その戦訓が太平洋戦争に活かされたとは言い難いようである。
戦局への影響という点で大きかったのは日本軍の航空偵察で、茫漠として高低差に乏しく目立つランドマークもないノモンハンの地形にあっては航空偵察による情報は重要であり、新鋭の九七式司令部偵察機を始め多数の偵察機が運用された。しかし、ソ連軍の動静を見誤ってたびたびソ連軍の後退を伝える誤報を流し、後方の司令部に実態と乖離した楽観を抱かせる原因ともなった。
[編集] 停戦後の国境確定交渉
一方、ソビエト連邦の首都モスクワでは、駐ソ日本大使東郷茂徳とソ連外務大臣ヴャチェスラフ・モロトフとの間で停戦交渉が進められていた。だが、ソ連側の強硬な姿勢と東郷が停戦協定を締結しても独断専行で事を進める関東軍が従うかどうかを憂慮して慎重に事を運んだ事もあって、停戦協定が成立したのは9月15日の事であった。停戦協定では、とりあえずその時点での両軍の占領地を停戦ラインとし、最終的な国境線の確定はその後の外交交渉にゆだねられた。交渉は11月から翌年6月までかかってやっと合意に達したが、結局は停戦ラインとほぼ同じであった。対立の対象となった地域のうち、主戦場となった北部から中央部ではほぼモンゴル・ソ連側の主張する国境線によって確定し、一方主戦場からは外れていたが9月に入って日本軍が駆け込みで攻勢をかけて占領地を確保した南部地域は日本・満洲国側の主張する国境線に近いラインで確定した。
[編集] ノモンハン事件の戦略と戦術
[編集] 兵力の集中と兵站
ソ連軍司令官のジューコフは、この戦いで兵站上の革新を成し遂げた。19世紀後半から1939年までの陸軍の兵站線は鉄道を主体とするものであり、鉄道と港湾を離れて大軍を運用することはきわめて困難とされていた。しかしジューコフは、後方基地からの650-750kmに渡る長大な兵站線を大規模自動車輸送によって確保し、8月までに大量の物資を蓄積したことで、8月攻勢の前に十分な戦力を整備したのであった。当時のソ連軍は一般に補給を軽視していたが、ノモンハンは例外であった。
ハイラル駅からの日本軍の補給線は約200kmであり、ソ連軍に比べるとはるかに短かった。しかし、輸送力がはるか及ばなかった日本軍部隊は、ハイラルから戦場までを徒歩で行軍した。この補給量と戦力の隔絶が以後の戦いの帰趨を決したといっても過言ではない。
[編集] 隠蔽歩兵の有効性と限界
ノモンハンの戦場は丈の低い草原と砂地で、防御側を利する地形要素は何もなかった。ハルハ河西岸(ソ連側)は、日本側より標高が高かった。それでも、日本の歩兵はタコ壺を掘って身を隠し、砲兵はごく緩い稜線を利用して身を隠せそうな陣地を作った。
こうした間に合わせの防御に対し、ソ連軍は一気に蹂躙すべく戦車だけ、あるいは戦車と歩兵で繰り返し攻撃をかけた。しかしこれは、地形と装備差から予想されるような一方的殺戮にならなかった。防御側の損害も大きかったが、歩兵の肉薄攻撃で多数の戦車が破壊され、攻撃側の損害も大きかった。
しかし、日本軍部隊が何らかの活発な行動を起こすと、高地に位置するソ連砲兵の良い標的になった。こうした状態で補給を受けることは極めて困難で、部隊は持久できなかった。北の夏の短い夜の間だけが、日本軍の行動にいくばくかの安全を与え、夜襲と撤退の機会を与えた。
[編集] 対戦車戦闘
第一次世界大戦で、戦車は塹壕を突破して膠着状態の戦局を打開するために登場したが、第二次世界大戦では防御陣地に不用意に近づかないことが戦車戦術の常道となった。ノモンハンの経験はこれを先取りするものであった。
1939年当時のソ連軍は、T-34やKV-1のような装甲の厚い戦車を未だ保有せず、高速だが装甲の薄いBT戦車(最大装甲17mm)やBA-10のような装輪装甲車を多数投入した。その装甲は、日本軍が持つ砲(小型の九四式37mm速射砲など)でも貫通可能で(ほぼ7~800m以内の距離で装甲に直角に命中すれば撃破可能だったといわれる)、また射撃の腕においても訓練をつんだ日本兵の方が優れ、相当数のソ連軍戦車や装甲車が撃破された。特に8mmの装甲しか持たない装輪装甲車は虚弱で、重機関銃の徹甲弾の集中射撃でも撃破された。一方で、意外なことにノモンハンでもっとも厚い装甲をもっていたのは4両が投入された日本軍の九七式中戦車(最大装甲25mm)であった。ただし、対戦車戦闘をまったく考慮していない八九式中戦車と九七式中戦車の短砲身57mm砲の装甲貫徹力は、ソ連軍戦車の長砲身の45mm砲に大きく劣った。
ノモンハンの戦場では、張鼓峰に引き続き、日本の歩兵とソ連の戦車との間で対戦車戦が繰り広げられた。単独で突進し、戦場のただ中で停止したソ連軍戦車は、死角から日本軍歩兵に接近されて次々に撃破された。日本軍歩兵は、戦車に対して火炎瓶で立ち向かった。発火性の強いガソリンエンジンを装備するソ連戦車は、火炎瓶攻撃の前にたやすく炎上した。しかし、ソ連戦車が機関部の周囲に金網を張って火炎瓶避けにしたり、発火性の低いディーゼルエンジン装備の戦車を配備すると、効果がなくなった。また、歩兵と協同で攻撃する戦車に対しては、火炎瓶攻撃の機会がなかった。
他兵科との協同を軽視したのは日本軍戦車部隊も同様であった。7月3日に敵陣地に対する正面攻撃を実施した戦車第3連隊は、陣前に張られたピアノ線にキャタピラを絡めとられた。装甲が薄い日本戦車は被弾すれば必ず撃破されるため、敵前での停止は致命的であった。大損害を受けてから歩兵との協同行動の必要を認識したが、ノモンハンで再戦する機会は来なかった。
[編集] 戦車戦闘
日本軍の戦車は、比較的装甲の薄いソ連戦車との戦闘でさえも質・量ともに苦戦を強いられた。数ではソ連軍が500両以上の戦車を投入したのに対して、日本軍の戦車は中戦車38両と軽戦車35両の73両(他に装甲車が約20両)に過ぎず、質的にも日本軍戦車は対戦車戦を行うのに十分な火砲・装甲を装備していないことを露呈した。この欠点は日本陸軍が戦車を歩兵支援兵器と位置付け、戦車の開発段階で対戦車戦闘を考慮していないことに起因していた。また、日本軍戦車部隊は7月の攻勢で大きな損害を受けると、関東軍の命令によって撤退した。これはさらに戦車を失うことで、もともと少ない戦車部隊の拡充が困難になることを恐れてのことであった。戦車部隊が戦闘に参加した期間は、実質的には7月2日夜から6日までに過ぎなかったが、このわずか4日間で、73両の戦車のうち30両近くが撃破された。戦車部隊の撤退によって、日本軍はますます歩兵による戦車攻撃に依存せざるをえなくなる結果となった。
[編集] 両軍が得た軍事的教訓
両軍とも、ノモンハン事件を局地戦とみなし、軍事的教訓を引き出さなかった。
ソ連は、ノモンハンでの勝因を押し広げようとしなかった。ソ連軍の兵站組織は旧態依然で、量的にも不十分であった。戦車は歩兵支援のために分散され、戦略的規模で用いる機動打撃軍は作られなかった。ソ連軍は、むしろ1939年のソ連・フィンランド戦争での経験から、陣地防御への信頼を強めた。1941年1月にジューコフが参謀総長になっても、目立った改革は起きず、赤軍は独ソ戦初期に壊滅的損害を被った。
日本は、軍部の威信低下を避けるため、国内に対して敗北を隠した。新聞はノモンハンでの日本軍の圧勝を報じた。陸軍はノモンハン戦後に「ノモンハン事件研究委員会」を組織しその敗戦の要因を研究したが、装備の劣勢を認識したものの抜本的なドクトリンの改革には結びつけなかった。装備上は、火砲や装甲の改良の研究に着手したものの、結局そのわずか2年後には勃発する太平洋戦線には間に合うことはなかった。後半において新型の中戦車開発に経験は活かされたものの、生産も投入も間に合わなかったのである。また、敗北の責任を参加将兵の無能と臆病、および政府の非協力に帰し、参加将兵に緘口令をしいた。一般の日本人が敗北の事実を知ったのは、戦後になってからだった。
[編集] 両軍の損失
ノモンハン事件の戦闘経過についての日本語文献は、主として日本側の資料に頼って書かれている。他の西側諸国の研究も同じである。当時の日ソ両国が公表した情報はまったく信用されていなかったが、中立的な観察者・研究者の間では、日本軍がほとんどなすところなく惨敗したという見方が有力であった。この見方は戦後日本軍が受けた甚大な損害が明らかになって広く定着した。
事件後に第6軍軍医部が作成した損害調査表によれば、日本軍の損失は戦死7720人(うち軍属24人)、戦傷8664人(うち軍属17人)、戦(平)病2363人(うち軍属13人)、計1万8979人であった。これは戦傷病から戦死に振り替える調整が終わっていない数値である。判明参加兵力の32.2%が失われ、特に第23師団は79.0%の損失であった。また、重砲は投入した全門が失われ、戦車・航空機の損害は前述のとおり約30両と180機であった。ただし、この陸軍の公式発表については、実際の損害はもっと多かったのではないか、という異論もある。特に、1966年10月に靖国神社でノモンハン事件の戦没者慰霊祭が行われた際、戦没者数を1万8000人と報道されたことがある。
これに対して、ソ連側の損害については正確な数字は公開されてこなかったが、1990年代からはソ連側資料が公開され、ソ連軍が戦死・行方不明約8000人、負傷・病気約1万6000名、合計約2万4000名、飛行機の損失約350機、装甲車両約300両という意外に多くの損害を出していたことが明らかになった。(参考資料:「ソヴィエト赤軍攻防史II 歴史群像第二次大戦欧州戦史シリーズ15」学研、この数字については、ノート:ノモンハン事件も参照)これはソ連軍にとっても大損害であり、ノモンハン戦が一方的なものだったという見方は改められた。ただし、戦闘の経過を見ると、ソ連軍が日本軍に対して苦戦したのは7月初旬までの段階であり、逆に8月の大攻勢以降はソ連側の一方的勝利であったことは間違いないと考えられる。
日本では辻政信らがノモンハン戦で日本は負けていなかったと唱えていた。本当は勝てたはずだったのだが、東京から制止されたために負けたことにされてしまったとするものである。しかし、実際には関東軍は、近代戦の主力となる戦車・重砲・航空機に重大な損失を被っており、とてもこれ以上の戦闘継続などできる状態ではなかった。
1990年代以降、ソ連軍の損害が明らかになると、一部の論者の中に日本の大勝利という説を唱える者も現れた。その中には、ソ連側の物的損害を航空機1600機以上、戦車約800台とする極端な主張も一部に見られるが、これは日本側の主張する「戦果」をつなぎ合わせたものに過ぎず、ソ連軍がこの戦いに投入した兵力は航空機約550機、戦車約5-600台と推定されていることからみて、あり得ない数字である。一方、日本軍大勝利説ほど極端ではないが、互いの損害が拮抗している(ただし日本側の公式発表数字が事実だとして)ことと、一部日本側が占領地を奪回した場面もあることから、両軍の引き分けと見る向きもある。
確かに、前線の日本軍将兵の戦いぶりが非常に勇敢であったことは、ソ連側の損害が明らかになる以前から知られていたし、ジューコフも前線の日本軍将兵の優秀さを認めていた。しかし、戦争の勝敗は損害の量の多寡によって決まるわけではない。互いの主張する国境線を巡って戦われた戦争で、日本軍は日本側の主張する国境線から、南部地域を除いてソ連側の主張する国境線まで押し出されて停戦したのだから、戦争目的を達成したソ連が、達成できなかった日本に勝利したと見るのが妥当であろう。そもそも、大勝利説は日本軍自身すら信じていなかったので、関東軍首脳が更迭されている。
また、ソ連側が二正面作戦を避けるために独ソ不可侵条約によって後顧の憂いを断つなど、この戦争に国家的な対応を行ったのに対して、日本軍は関東軍という出先軍の、辻政信と服部卓四郎など一部の参謀の近視眼的な独断専行による対応に終始した。そのため、政略・外交・戦略・動員・兵站など前線での戦闘以前の段階で日本軍はソ連軍に圧倒されていたのである。
これらの状況を踏まえて、現段階ではこの戦争の結果はソ連側の勝利と考える人が多数を占め、引き分けと考える人は少数派である。
この「戦争」で露呈された日本軍の補給の貧弱さや航空戦力の軽視は、第二次大戦に参戦しても改まらず、日本陸軍はノモンハン以上に多大な犠牲を出すこととなった。
[編集] 日ソとモンゴルの研究者による共同調査
1980年代末期より、消滅した満洲国を除く日本、モンゴル、ソ連の3当事者の学者たちによる共同の働きかけにより、この軍事衝突を研究する国際学会が相次いで開催された。
国際学会では、1989年にまずモンゴルの首都ウランバートル、ついでソ連の首都モスクワで、1992年に日本の東京で開催された。
東京の学会は「ノモンハン・ハルハ河戦争国際学術シンポジウム」と名づけられ、席上、ロシア軍のワルターノフ大佐は、従来非公開だったソ連・モンゴル軍全体の損害(死傷者及び行方不明者)について、日本軍よりも多くの損害を出していたことを明らかにした(三代史研究会『明治・大正・昭和30の「真実」』文春新書/一二六頁)。
東京の国際シンポジウムに関しては、口頭発表、配布資料、会場での質疑応答などがまとめられ、出版されている。
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- ノモンハン・ハルハ河戦争国際学術シンポジウム編『ノモンハン・ハルハ河戦争』(原書房)
[編集] 参考文献
- Alvin D. Coox, Nomonhan: Japan against Russia, 1939 vol.1, 2 (Stanford University Press) ISBN 0804718350
- アルヴィン・D・クックス(岩崎俊夫、吉本晋一郎 訳)『ノモンハン―草原の日ソ戦 1939』(上)(下)(朝日新聞社) ISBN 4022560460 ISBN 4022560673
- 小田洋太郎・田端元『ノモンハン事件の真相と戦果』(友朋書房)
- 御田重宝『人間の記録 ノモンハン戦 攻防戦・壊滅編』(徳間文庫)
- 鎌倉英也『ノモンハン 隠された「戦争」』 NHKスペシャルセレクション (日本放送出版協会) ISBN 4140805889
- 五味川純平『ノモンハン(上・下)』(文春文庫)
- シーシキン、田中克彦 訳 『ノモンハンの戦い』 (岩波現代文庫) ISBN 4006031270
- 半藤一利『ノモンハンの夏』(文春文庫)
- マクシム コロミーエツ(小松徳仁、鈴木邦宏 訳) 『ノモンハン戦車戦』ロシアの発掘資料から検証するソ連軍対関東軍の封印された戦い 独ソ戦車戦シリーズ (大日本絵画) ISBN 4499228883
- 秦郁彦『昭和史の謎を追う(上)』(文藝春秋)
- 東郷茂徳『時代の一面 大戦外交の手記』(中公文庫)
[編集] 関連項目
- ノムンハン(ノモンハンと言う語のルーツ)