後金
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後金は17世紀前半に中国東北地区(満洲)に興った満洲人(女真人)の国家で、清の前身。
1588年までに女真の建州女直を統一しマンジュ国(manju gurun, 満洲国)を立てていたアイシン=ギョロ(愛新覚羅)氏のヌルハチは、1593年に海西女直との戦争に入って勢力を拡大した。ヌルハチは1616年までにイェヘ部族を除く全女真を統一してこの年ハンの位につき、「天命」の年号を立てて明からの独立を宣言した。ヌルハチはこのとき国号をアイシン国(aisin gurun, 金国)と定めたので、かつて12世紀に完顔阿骨打の立てた金と区別してこの国を「後金」と呼ぶ。首都は1603年以来のヌルハチの居城ヘトゥアラ(興京)に置かれた。
前後してヌルハチは満州文字を定め、八旗制を創始して国家の基礎を打ち立てた。1618年、後金は「七大恨」を掲げて明に対して挙兵した。遼東の明の拠点を攻撃し、翌1619年にヘトゥアラに向けて派遣された明の大軍をサルフの戦いで破ると、イェヘを併合し女真の完全統一を果たした。1621年には明の遼東支配の拠点遼陽と瀋陽を征服し、都を遼陽に移す。1625年、都を遼陽からさらに瀋陽(盛京)に移した。しかし翌1626年の寧遠攻めで西洋式の大砲を擁する袁崇煥の軍に敗れ、まもなくヌルハチは病死した。
ヌルハチの死後、後継者ホンタイジは内モンゴルを平定し、朝鮮を服属させ、女真の民族名を満洲(manju, 満州)に改めた。1636年に国号を大清(daicin gurun,ダイチン国)に改めた。清は1644年に明滅亡後の中国に進出し、1911年の辛亥革命に至るまで中国を支配したため中国最後の統一王朝に数えられている。