徐徳言
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徐徳言(じょとくげん、生没年不詳)は、中国の南北朝時代陳の家臣。第5代皇帝・後主(陳淑宝)の駙馬(女婿)で、正妻は後主の長女である樂昌公主(572年? ~ 没年不詳)がいる。
[編集] 略要
[編集] 生涯
彼は江南の貧しい士分の子として生まれたが容貌に優れ、学識もあり、また人柄もよかったので陳の後主に気に入られて、太子舎人に任命されて、太子の陳胤の近侍の秘書となった。また太子の異母姉で帝の娘である樂昌公主を娶ることを許された。この夫婦は仲睦まじかったという。だが、その時の陳朝は衰退の兆しを見せ、既に鮮卑系の北朝の隋が晋王の楊広を総大将とした軍勢が長江方面へ南下した。弱体化した陳は抵抗らしい抵抗もせず、あっさりと滅亡した。その時に徐徳言は彼女に「君は陛下の公主にして、しかも学識があり美貌だ。きっと隋は君を優遇するだろう。今は別れるが来年の正月にきっと会おう。」と述べて、彼は徐家の家宝である鏡を割って、片方を彼女に渡し、もう片方は自分が持ち、こうして二人は運命に翻弄されて別れた。そして翌年の正月の15日に旅人に扮した徐徳言は洛陽にやって来て、彼女を訪ねた。だが彼女は既に隋の宰相で越石公の楊素の妾となり、その片方の鏡は洛陽の市場で売られていたと聞いた彼は大いに悲観し、彼の有名な悲しみの詩である『破鏡重(難)円』(夫婦の仲が偶然引き裂くこと)を洛陽の市場の壁に記し残して洛陽を去り、寂しく江南に帰ったという。
破鏡重円 | |
鏡与人倶去 | 鏡は人と共に去り |
鏡帰人不帰 | 鏡は帰ったが人は帰らなかった |
無復嫦娥影 | 復(ふたた)び、姮娥(こうが=樂昌公主のこと)の影はなく |
空留明月輝 | 空しく明日の輝きを留めている |
しばらくして、樂昌公主がたまたまその市場に散策した時に、この詩を見て彼女は涙を流して「…これは徐徳言さまの詩に相違ないわ。」と洩らしたという。やがて樂昌公主の侍女から事情を聞いた楊素は「…そうか、彼女は元夫の徐徳言と申す若者とそんなに深い関係で結ばれておったか。」と述べ、彼は潔く徐徳言を探し出して「君らは再び、夫婦に戻りたまえ。そして、わしが一生暮らせるほどの生活費を捻出してやろう。」と述べて、二人のために計らってやったという。こうして徐徳言と樂昌公主は再び一緒となり、彼等は楊素邸に何度も拝礼したという。やがて、二人は徐徳言の故郷で多くの子供を儲けて幸せに暮らし、恩人の楊素に対して拝礼を欠かさず、毎年贈り物を献上したという。または、これが著名な故事の「破鏡合一」(はきょうごういつ、或いは破鏡合嘆(=はきょうごうたん)とも言う)だともいう。
一説では、徐徳言と樂昌公主の間に儲けた息子は隋と同じ鮮卑系の唐に仕えたという。
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