陳胤
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陳胤(ちんいん、生没年不詳)は、中国の南北朝時代陳の皇族。第5代皇帝・後主(陳叔宝)の長男。生母は沈皇后、異母弟に陳深が、異母姉に樂昌公主(太子舎人の徐徳言夫人))がいる。
[編集] 略要
[編集] 悲運の廃太子
582年、父が即位すると永康県公に封じられる。584年に皇太子に指定された。
彼は皇后の産んだ子でもあり、聡明で学問好きで主に文学を好んだ。だが、その反面礼儀に疎くその過失が多かったという。太子の後見役であり尚書僕射・袁憲が太子の身を案じて、彼に礼儀に適うように直言したが、太子は辟易して幼い時から後見役の袁憲を遠避けたという。また生母の沈后も、夫の後主がこの頃、側室の張麗華を寵愛し、その息子の始安王・陳深を溺愛したこともあり、皇太子と皇后は次第に天子に疎まれたという。また太子府に度々使者が参内していたので、父・後主は皇太子がすぐに帝位を簒奪して父である自分に退位を迫って来るのではないかと猜疑心に陥り、太子を激しく憎んだ。また、寵愛する張麗華と孔貴妃は日ごとに皇太子を讒言し、また孔貴妃の兄の孔範達が皇太子を廃嫡し始安王を新太子にすべく上奏を繰り返したという。
そのために、後主も徐々に沈后とその子の太子・陳胤を廃嫡にして、張麗華の息子の始安王・陳深を新太子に立てるべく構想を日ごとに重ねたという。その決定的な出来事がとうとう起きた。ある日に後主は冗長の口調で「胤を廃嫡にして深を太子にしたほうがふさわしいがのう…」と述べた。すると吏部尚書の蔡徴達は「陛下!それは素晴らしき思案でござりまする!」と大いに賛同した。だが、太子の後見役の尚書僕射・袁憲は激怒して、蔡徴らに向かって「太子さま将来は天子になられるお方だ!お前等は何故そんなことを軽薄な口調で喋るのじゃ?太子さまがお前等ごときにそんなことを言われる筋合いはないわ!」と激しく叱責したという。だが、これを聞いた後主はいきなり剣幕となり「黙れ!黙れ!その方こそ何様じゃ?太子を廃嫡するしないはわしの自由だ!!目障りじゃ。袁憲よ、そちの官職を剥奪する!!さっさと立ち去れ!!」と激しい口調で叫んだという。こうして初めは冗長だった後主が袁憲によって、本気で太子陳胤の廃嫡に動き出したのであった。
586年夏5月、後主はついに皇太子の陳胤を廃嫡にして、愛する揚州刺史・始安王の陳深を立太子とした。こうして、陳胤は呉興王に降格され、呉に赴いた。序でに生母の沈后も廃されてわが子と共に呉に行ったのである。元々、後主は亡父の宣帝によって結婚した名門出の沈后を嫌っており、そのために寵愛が薄かったいう。だが、沈后は人間ができており、かえって倹約を奨励し、衣服も質素として心掛けていたという。また、彼女は経典や歴史書などを愛読し、それを語り合ったと言う。だから、彼女の息子の前太子で呉興王の陳胤も生母の素質を濃厚に受け継いだと思われる。なお、その後の陳胤の行方は不詳である。
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