忍熊皇子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
忍熊皇子(おしくまのみこ、? - 神功皇后元年(201年)3月)は、『古事記』『日本書紀』に伝えられる古墳時代の皇族(王族)。忍熊王、忍熊別皇子とも。仲哀天皇の皇子で、母は彦人大兄の女・大中姫(おおなかつひめ、大中比売命)。麛坂皇子の同母弟。
『古事記』『日本書紀』によれば、新羅征討中に仲哀天皇が崩御し、神功皇后が筑紫で誉田別尊(後の応神天皇)を出産したとの報に接した忍熊皇子は、次の皇位が幼い皇子に決まることを恐れ、兄の麛坂皇子と共謀して、筑紫から凱旋する皇后軍を迎撃しようとした。皇子は仲哀天皇の御陵造営のためと偽って、播磨赤石(明石市)に陣地を構築し、倉見別(犬上君の祖)・五十狭茅宿禰(いさちのすくね、伊佐比宿禰とも)を将軍として東国兵を興させた。 ところが、菟餓野(とがの、兵庫県神戸市灘区の都賀川流域か)で反乱の成否を占う狩を行った際、麛坂皇子が猪に襲われて薨去し、不吉な前兆に恐れをなした忍熊王は住吉に後退した。一方の神功皇后は海路(瀬戸内海)の要所に天照大神・住吉大神を鎮祭し、紀伊に上陸した。皇子軍は更に退いて菟道(うじ)に陣立てし、武内宿禰・武振熊(和珥臣の祖)を将軍とする皇后軍に挑んだが、武内宿禰の策略によって弓・刀を失い、逃走した果て逢坂にて敗れた。逃げ場を失った皇子は、五十狭茅宿禰とともに瀬田川に投身した。その遺体は数日後に菟道河で発見されたという。
仲哀天皇・神功皇后の実在性が疑われる中で、皇子もその例外ではない。この反乱は、後の草壁皇子・大津皇子の対立をベースとして応神天皇即位の正当性を示すために創作されたとする説もある。