慈尊院
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
慈尊院 | |
---|---|
所在地 | 和歌山県伊都郡九度山町慈尊院832 |
位置 | 北緯34度17分42.69秒 東経135度33分0.67秒 |
山号 | 万年山 |
宗派 | 高野山真言宗 |
本尊 | 弥勒仏 |
創建年 | 弘仁7年(816年) |
開基 | 空海 |
正式名 | |
別称 | |
札所等 | |
文化財 | 世界遺産、弥勒仏像(国宝) |
慈尊院(じそんいん)は、和歌山県伊都郡九度山町慈尊院にある、高野山真言宗の寺院である。
2004年7月に、高野山や高野山町石道とともに『紀伊山地の霊場と参詣道』としてユネスコの世界遺産に登録された。
目次 |
[編集] 起源と歴史
弘仁7年(816年)、空海(弘法大師)が嵯峨天皇から高野山の地を賜った際に、高野山参詣の要所に当たるこの九度山の雨引山麓に、高野山への表玄関として伽藍を創建し、高野山一山の庶務を司る政所(寺務所)を置き、高野山への宿所ならびに冬期避寒修行の場とした。
高齢となった空海の母は、香川県善通寺市から息子の空海が開いた高野山を一目見ようとやって来たが、当時高野山内は7里四方が女人禁制となっていたため、麓にあるこの政所に滞在し、本尊の弥勒菩薩を厚く信仰していた。
空海はひと月に9度(正確に9度というわけではなく、それだけ頻繁にということの例えだと言われている)は必ず20数kmに及ぶ山道(高野山町石道)を下って政所の母を訪ねてきたので、この辺りに「九度山」という地名が付けられた。
空海の母は承和2年(835年)2月5日に死去したが、そのとき空海は弥勒菩薩の霊夢を見たので、廟堂を建立し自作の弥勒菩薩像と母公の霊を祀ったという。弥勒菩薩の別名を「慈尊」と呼ぶことから、この政所が慈尊院と呼ばれるようになった。
空海の母がこの弥勒菩薩を熱心に信仰していたため、入滅(死去)して本尊に化身したという信仰が盛んになり、慈尊院は女人結縁の寺として知られるようになり、女人の高野山参りはここということで「女人高野」とも呼ばれている。
[編集] 文化財
[編集] 国宝
- 木造弥勒仏坐像
- 如来形の弥勒仏の像で、像高は91cm。右手を挙げ(施無畏印)、左手を膝上に置く(与願印)如来像通有の印を結ぶ。下ぶくれの頭部、重々しい面相、量感のある体躯表現、大ぶりに刻まれた翻波式衣文(ほんぱしきえもん、大波と小波を交互に刻む様式)などに平安時代初期彫刻の特色が現れている。組んだ両脚の前の裳先部分に寛平4年(892年)の墨書がある。この裳先部分は後補であるが、墨書はオリジナルの銘文を忠実に写したものと認められ、寛平4年の作であると認められている。在銘作品の少ない平安前期彫刻の基準作として重要である。長年秘仏として伝えられてきたため、光背、台座も当初のものが残されている。厳重な秘仏であったため、学術調査が実施されたのは第二次大戦後のことであり、1962年に重要文化財、翌1963年に国宝に指定された。開扉は21年に一度とされている(空海の命日が21日であることにちなむ)。
[編集] 重要文化財
- 弥勒堂(附:石造露盤宝珠1組、棟札17枚) - 鎌倉時代後期の建築。宝形造、檜皮葺き。
- 絹本著色弥勒菩薩像
[編集] 交通
- 鉄道
[編集] 関連項目
[編集] 高野山の案内犬ゴン
昭和60年代に、九度山駅と慈尊院を結ぶ途中にある丹生橋の近くに住みついていた紀州犬と柴犬の雑種である白い雄の野良犬が、やがて慈尊院や高野山の参詣者・ハイキング客を案内するようになった。
慈尊院から聞こえる鐘の音を好んでいたため、いつしかこの野良犬は「ゴン」と呼ばれるようになった。
最初の頃は九度山駅と慈尊院の間を案内するだけだったが、1989年(平成元年)頃から慈尊院をネグラとして、高野山町石道の20km強の道のりを朝、慈尊院を発って、夕方に高野山上の大門まで道案内し、夜には慈尊院に戻る毎日を送っていた。
しかし長く険しい山道を連日のように歩き続けたため体力的・年齢的にも相当の負担がかかったようで、1992年(平成4年)をもってガイド犬を引退し、その後老衰のため、2002年(平成14年)6月5日の午後に息を引き取った。
約1200年前の弘法大師の時代にも高野山の案内犬がいたという伝説があり(金剛峰寺#開創伝承も参照)、このゴンは「弘法大師の案内犬の再来・生まれ変わり」などと呼ばれ親しまれていたこともあって、慈尊院住職の計らいで境内の弘法大師像の横に、ゴンの石像が載せられた「高野山案内犬ゴンの碑」が建てられている。
- 参考文献
- 関 朝之/作 「高野山の案内犬ゴン ~山道20キロを歩きつづけた伝説のノラ犬~」(ハート出版)
カテゴリ: 和歌山県の寺 | 国宝 | 和歌山県の重要文化財