慕容儁
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慕容儁(ぼようしゅん、319年-360年)は、前燕の第3代皇帝。廟号は烈祖。第2代皇帝・慕容皝(太祖)の次男。字は宣英(在位:348年-360年)。
319年、第2代皇帝・慕容皝(太祖)の次男として生まれる。348年に父が死去したため、その後を継いで第2代皇帝に即位する。349年、後趙の太祖(石虎)が死去して後趙内部で皇位継承争いが起こり、事実上国内が崩壊されると、慕容儁はこの好機を見逃さずに後趙に侵攻を開始し、現在の北京に当たる領域を奪って、そこを前燕の都としている。さらに後趙の都にも侵攻してこれを落とし、そこで正式に大燕皇帝として即位を果たした。
しかし聡明で知られた皇太子の慕容曄が早世したため、やむなく慕容儁は三男の慕容暐を皇太子に指名した。しかし晩年はこの皇太子の若さと力量を案じていたという。360年に死去。享年42。後を三男の慕容暐が継いだ。
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