懐疑主義
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懐疑主義(かいぎしゅぎ)は、基本的原理・認識に対して、その普遍性・客観性を吟味し、根拠のないあらゆるドクサ(独断)を排除しようとする主義である。懐疑論(かいぎろん)とも。
懐疑主義とよく比較される独断主義(独:Dogmatismus)は、絶対的な明証性をもつとされる基本的原理(ドグマ)を根底におき、そこから世界の構造を明らかにしようとする主義である。(ドグマとは元来宗教上真理と宣言された教義をいう。)
独断主義は、主に懐疑主義や認識論の側の用語であり、神などの超越者を前提とする形而上学、存在論的形而上学、神学論などに対していわれ、オカルティズム、現代では擬似科学に対していわれることもある。(このときドグマは思いなし(ドクサ)とほぼ同義に扱われる。)独断主義とはそもそも批判のための用語であり、したがってそのドグマ(独断)の内容に関わらず否定的に語られる。いっぽう、懐疑主義ないし懐疑論は、古代から近世にかけて、真の認識をもたらさない破壊的な思想として論難されることが多かった。これは、懐疑主義が、懐疑の結果、普遍性・客観性のある新たな原理・認識が得られなかった場合、判断停止に陥り、不可知論と結びつき、伝統的形而上学の保持する神や存在の確かさをも疑うようになったためである。しかし近代以降は、自然科学の発展の思想的エネルギー源となったこともあり、肯定的に語られることが多い。
[編集] 哲学史における懐疑主義
懐疑主義的な思想はすでに古代ギリシアにみられ、プラトンの開いたアカデメイアはアルケシラオス(紀元前315年頃 - 紀元前241年)が学頭になって以降、懐疑哲学の牙城となり、後の学頭カルネアデス(紀元前214年頃 - 紀元前129年)はアルケシラオスの懐疑哲学をさらに発展させた。その思想の片鱗はアウグスティヌスの『アカデメイア派反駁』にみることができる。2世紀ごろには経験主義の医者でもあったセクストス・エンペイリコスが経験主義的な面を知識の根拠として取り入れ、ギリシア懐疑哲学を発展させた。(現在、ギリシア懐疑哲学を知るための直接の資料は、セクストスの著書しかない。)
一般に、感覚器官等に根拠を求める経験論的な立場は懐疑主義と結びつく。他方で、人間には原理的に本質認識能力があるとする直感主義は、独断主義だと批判されることがある。また認識が人間に内在する能力によるものであるとする限り、認識の主観性、あるいは相対性を免れ、絶対的な認識を得ることは不可能である。
近代の哲学者であり、一種の直観主義の立場に立つルネ・デカルトは、同時に原理として懐疑を唱えている。しかし、デカルトの懐疑は自らの誤謬を根こそぎにし、真理に至るための方法的懐疑とされ、通常の懐疑主義とは異なる。
哲学が本来自己批判性をその本質とする以上、なんらかの懐疑は不可欠である。思想史上での懐疑主義の定義は、必ずしも明瞭ではないが、近代ではヒュームやモンテーニュらにみられるように、認識論的視点からの懐疑性の主張を意味するのが普通である。
[編集] 一般的な「懐疑主義」
現代においては、社会において、一般的・常識的とされている思想・考え方や、事実として語られる事柄に対して、自分自身の経験や自分自身がそうあるべきだと思う考えと照らし合わせてみて、おかしいと思った場合それを受け入れないでいること。特に非科学的な事柄(UFO・心霊現象・占い等のオカルティズム等)に対して強く疑いを持つ考え方を、一般的に「懐疑主義」という。なお、この観点から言えば、一般の人は全て懐疑主義であるといえる。
しかし現代において、本当の意味で懐疑主義が根付いているかといえばそうではない。むしろ、「科学的といわれていれば、真実である」という常識に盲目的に従っている人も多くいると考えられ、疑似科学はそういった社会の固定観念に付け入って増殖している。
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