我思う、ゆえに我あり
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我思う、ゆえに我あり(われおもう、ゆえにわれあり)はルネ・デカルトが自著「方法序説」の中で提唱した有名な命題である。原語はフランス語でJe pense, donc je suis。ラテン語訳でcogito, ergo sum(コーギトー・エルゴー・スム)(cogito - 私は思う、ergo - それ故に、sum - 私は在る)、英語では“I think,therefore I am”。ちなみに、ラテン語訳はデカルトと親交のあったメルセンヌ神父によるもので、デカルト自身のテクストにはラテン語での記述は登場していない。
一切を疑うべしDe omnibus dubitandumという方法的懐疑により、自分を含めた世界の全てが虚偽だとしても、まさにそのように疑っている意識作用が確実であるならば、そのように意識しているところの我だけはその存在を疑いえない(我思う、ゆえに我あり)、とする命題である。コギト命題といわれることもある。哲学史を教える場合の一般的な説明によれば、デカルトはこれを哲学の第一原理に据え、方法的懐疑に付していた諸々の事柄を解消していった、とされる。
また、これを意識の「内部」の発見と位置付けることもできる。中世までの哲学では、意識の内部と外部の問題系というものがなかった。いいかえれば、内部に現われている観念(表象)と外部の実在が一致すると思いなされてきた。ところが、デカルトの方法的懐疑はまずこの一致の妥当性を疑った。すなわち、表象と実在は一致するのではなく、むしろ表象から実在を判断することは間違いを伴う、というのである。「一度でも間違いが起こった事柄に関しては全幅の信頼を寄せない」とするデカルトは、それでもやはり、絶対確実なものを見付けようと試みた。ここで、絶対確実なものとは、表象で直観されたものから実在に関する判断が直接に導かれる事柄のことである。そして、このようなものとは、実は「絶対確実なものを見付ける」という試みそのものを可能にする、「私は考える」という事実であった。これによって、意識の「内部」としての「考えるところの私」が確立し、そこに現われている観念と外部の実在との関係が、様々な形で問題に上るようになった。例えば、「観念に対応する実在はいかに考えられるべきか」や「もっとも確実な観念はなにか」といった問いが挙げられよう。以後の哲学は現代に至るまでこの影響を色濃く残しており、同時に、それに対する批判もマルティン・ハイデッガーなどから生まれている。
現代ではしばしば、デカルトのコギトの存在確立が近代の幕開けとなったといわれ、ポストモダンなどの見地から様々な形で批判されることがある。しかし、一般に大陸合理論の立場からいえば、デカルトの命題は自我の存在を証明する推論ではない。例えば、哲学者ガッサンディはデカルトの命題を、「(1)全て考えるものは存在する、(2)私は今考えている、(3)ゆえに私は存在する」という三段論法と異ならないと指摘する。そして、デカルトのコギト命題はこの三段論法の形式に則っておらず、雑であると難ずるのである。しかし、デカルトにとって、「(1)全て考えるものは存在する」は、未だ疑わしい。意識作用の直接性から「直観として」導かれたものが、コギト命題である。ゆえに、これを単なる論理の推論と考えるのには慎重を要する。これはむしろ「いかなる推理syllogismからも帰結concluditurされない或る根本的な観念prima quaedam notio(デカルト)」であり、デカルト自身も、「ゆえに」という接続を相応しいとは思っていなかったようである。
[編集] 後世への影響
- スピノザは「我は思惟しつつ存在する(Ego sum cogitans.)」と解釈している。
- アンブローズ・ビアスは『悪魔の辞典』の中で、デカルトの発言は不徹底である、厳密性を更に求めるならcogito cogito, ergo cogito sum.(「我思うと我思う、故に我ありと我思う」)というべきであろうと書いている。確かに、cogitoを論ずるときには、それが単なる「私」ではなく「考えるところの私」もしくは「私は考える」の意味であることを忘れてはいけない。
- 木城ゆきと原作の漫画『銃夢』において、自分の思考さえも集積回路のチップによって統制されているためにこの命題すら気休めにしかならない、と木城が書いている。むろん、「自分の思考さえもそのようになっている」と疑うそのことが自明である以上、この命題そのものの妥当性が失われているわけでは全くない。数学の正当性(5-1=4は実在するか?)すらも悪霊の仕業かもしれないと疑うなど、デカルトの方法的懐疑は極めて徹底的であり、木城の指摘はあまり正確とはいえない。
[編集] 参考文献
- 『方法序説』(初出1637年、岩波文庫)
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