斎藤龍興
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斎藤 龍興(さいとう たつおき、天文17年(1548年) - 天正元年8月14日(1573年9月10日))は戦国時代の大名。斎藤義龍の庶子で幼名は喜太郎。義糺、一色義輔とも。
1561年(永禄4年)、父の死に伴って美濃斎藤氏の家督を継ぐが、家督相続直後からたびたび織田氏・浅井氏の侵攻を受ける。
1564年には普段より白面で柔弱という理由で龍興から辱めを受けていた家臣の竹中重治の策略で稲葉山城を奪取されており、後に返還されている。さらに美濃三人衆ら重臣が続々と離反したことによって家勢は衰退した。 1567年(永禄10年)とうとう織田信長の攻勢に耐えられず、居城の稲葉山城を開城。伊勢長島へと逃亡し、長島一向一揆に加わる。さらに畿内へ逃れ三好三人衆らと信長に抵抗するも果たせず、越前朝倉氏の元へ逃れる。このとき一色刑部大輔義輔と改名。最期は越前刀禰坂において織田軍と戦い討死している(刀禰坂の戦い)。