新潟大火 (1955年)
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新潟大火(にいがたたいか)とは、1955年10月1日未明に新潟県新潟市で発生した火災、及びそれによる被害の総称である。
新潟市内では過去にも「新潟大火」と呼ばれる大規模な火災が数回あり、中には萬代橋が焼失する被害が出たこともあったが、ここでは前述した1955年の大火について記述する。
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[編集] 火災状況
火災が発生したのは当日の午前2時50分頃。場所は新潟市医学町一番町にあった新潟県教育庁(県庁第三分館)だった。当時の新潟県庁(現・新潟市役所本庁舎)の向かいで、ダイアパレス医学町の場所にあたる。ここで漏電により出火。ちょうど日本海を台風22号が通過した直後のことで、北西からの季節風により、南東方向の新潟市街地へ向けて火の手が広がった。
午前3時4分に消防本部に初期通報が入り、新潟市消防本部が出動する。
しかし強風の影響もあって火の回りが速く、県庁から真っ直ぐ北へ伸びる東中通、その1本東の西堀通に延焼。更にその先の古町方面に燃え広がった。当時中心部の新潟大和7階にはラジオ新潟(現在の新潟放送)があり、当時は放送休止中でフィラー音楽を放送していたが、急遽屋上からの臨時中継の放送を敢行する事になり、火災の状況をラジオを通じて市民に報道していた。しかしこの新潟大和を中心とする柾谷小路にも火の手が迫っていた。
火の手が古町界隈にやってきたのが午前4時頃。既に斜め向かいの小林百貨店(現在の新潟三越)や正面の銀行、店舗からも火の手が上がり、やがて新潟大和に燃え移ってしまう。これまでは丹羽アナウンサーが屋上に特設されたマイクを握り締め、眉を熱風に焼かれながら実況中継を行っていたが、類焼するに及び、「これ以上放送できません」という言葉を残してスタッフ一同で避難をした。直後、局舎にも引火し放送は中断。しかし郊外の同市網川原(現・美咲町)にある送信所では出火後から臨時スタジオの準備が進められており、本社からの放送中断から1分後には再開第一声が発せられた。
夜が明けてくると火の勢いはやや治まったが、それでも柾谷小路沿いに本町も嘗め尽くした炎は萬代橋の近くまで迫りつつあった。しかも強風のあおりで信濃川沿いの民家に飛び火。午前10時50分にやっと鎮圧。残火も含めて完全鎮火したのは午後7時のことだった。
この火災で新潟市の中心部は壊滅的な打撃を受けた。市内の建物もまだ木造が多く、焼け残った建物は少なかった。この火事で新潟日報社、新潟農協、小林百貨店、大和新潟店(現・新潟大和)、新潟市役所(現・NEXT21立地)、新潟郵便局(現・新潟中郵便局)、東北電力新潟営業所、竹山病院、北越銀行古町支店、第四銀行本店などが焼失している。また東中通と西堀通の間にあって「寺町」と称される寺院街も被害を受けた。
[編集] 被害
- 死者 無し
- 行方不明者 1名
- 消防職員の負傷者 48名
- 応援消防隊員の負傷者 10名
- 自衛隊員の負傷者 2名
- 一般人の負傷者 175名(うち重傷者35名)
- 焼失面積 78,000坪
- 焼失延坪数 64,984坪
- 焼失建坪数 40,839坪
- 焼失棟数 892棟
- 焼失戸数 972戸
- 罹災世帯 1,193世帯
- 罹災人員 5,901名
[編集] 損害見積額
- 建物 21億3,287万1,000円
- 家具什器 7億6,047万7,100円
- 商品額 17億7,054万200円
- 機械設備等 7億5,644万3,000円
- その他 15億6,673万8,100円
- 損害見積額 合計 69億8,706万9,400円
[編集] その後
この後新潟市内を流れていた堀(西堀・東堀など)が昭和30年代末期までに埋め立てられた。1964年に新潟国体が開催されることも決まり、市内の道路網の整備が必要だったこと、堀の水質が年々汚濁し、衛生の確保が必要であった事などが理由だが、この大火の際、堀のある通りは土手側にヤナギの木が植生してあったため、消防車両が入りにくく消火活動の妨げになった事、防火のためにある程度の空間を確保する必要があった事なども、堀を廃止する遠因となっている。
また火災の模様を炎上寸前まで伝えたラジオ新潟の放送には高い評価が与えられ、その後特別番組で取り上げられたこともあった。なお、放送の模様は横浜市の放送ライブラリーや新潟市歴史博物館(みなとぴあ)で試聴できる。
新潟大火によって大きな打撃を受けた新潟市民だが、次の大目標、新潟国体に向けて邁進していく。そして国体は大成功に終わったのだが、その直後に起こった新潟地震により再び大きな被害を被ることになる。新潟市が日本海側最大の都市として大きく発展を遂げていくのは、地震からの復興を果たし、更に上越新幹線、北陸自動車道など高速交通網整備に拍車がかかる昭和40年代中盤に入ってからになる。