日経
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日経(にっきょう、天文20年(1551年) - 元和6年11月22日(1620年12月15日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての日蓮宗の僧。号は常楽院。上総国の出身。
妙覚寺(京都府)日奥を師として法を学んだ。その後、妙満寺(京都府)27世を継いだ。強烈な布教と折伏で他宗を改宗させていた事で名を轟かしていた。1608年(慶長12年)尾張国熱田で行った浄土宗の正覚寺(愛知県)との宗論は、浄土宗の増上寺(東京都)を経て徳川家康に上訴され、浄土宗の廓山らと江戸城にて宗論が行われる事となった。日経は、宗論の前夜に幕府の手先とされる役人に襲われ、瀕死の重傷を負いながら席上に望んだが、結果的に敗れ、耳と鼻を削がれ酷刑となった。その後、北陸地方を放浪したという。
日経は、不受不施派の日奥直系であことから大阪城対論によって対馬に流された日奥の赦免運動に努め、また京・大阪を中心に盛んな折伏運動を展開した。しかしそのことによる他宗との摩擦が徳川家康の耳に入ることとなり、江戸城において浄土宗増上寺の郭山との対論を命ぜられた(慶長宗論)。この宗論では前夜寝所を襲撃された日経は重傷を負い言葉を発することが出来ず、負けと判定されたといわれる。そして、詫び状を差し出しを拒否した日経は京都六条河原において耳と鼻を削がれる酷刑を受けた(慶長の法難)。