明治美術会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
明治美術会(めいじびしゅつかい)は、明治22年(1889年)に発足した日本国最初の洋風美術団体である。
[編集] 歴史
日本における最初の国立美術教育機関である「工部美術学校」は、明治9年に西洋美術教育のみで発足したが、財政事情の悪化に加えて国粋主義の台頭を背景に同16年には廃校に到った。さらに新たな国立の美術教育機関である東京美術学校からは西洋美術が排されたため、東京美術学校の開校と同じ明治22年に工部美術学校出身の西洋美術作家達を中心に発足したのが「明治美術会」である。
当初は反東京美術学校という一面を備えていたが、同26年に帰朝した黒田清輝が入会することで政府への人脈を獲得し、同29年には東京美術学校に黒田を中心として西洋画科が設置さるに到る。同31年には浅井忠も同校の教授となり、明治美術会自体が美術学校内の組織のような状況へと変化する。
しかし黒田がもたらした印象派風の新画風は「外光派」(紫派)と呼ばれて好意的に受け容れられた結果、同29年には「白馬会」として独立してしまう。彼らが新派と称されたのに対して旧派と呼ばれた旧工部美術学校系の作家の作風は「脂派」(やには)と呼ばれて下火となり、明治美術会も同34年には解散に追い込まれる。しかし同会の若手作家達は34年のうちに新たに「太平洋画会」を発足させ、その系譜を引き継いでいる。
[編集] 主要なメンバー
- 浅井忠
- 小山正太郎
- 松岡寿
- 山本芳翠
- 五姓田義松
- 黒田清輝