星川稚宮皇子
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星川稚宮皇子(ほしかわのわかみやのみこ)は、『日本書紀』に登場する皇族。雄略天皇と吉備上道臣氏出身の稚媛との間の子で、磐城皇子の弟。通常、稚宮を省略して星川皇子と呼ばれる。雄略天皇の死後反乱を起こした。『古事記』では系譜、反乱伝承ともに欠いている。
雄略天皇は吉備上道臣田狭が自分の妻・稚媛の美しさを自慢するのを聞いて、田狭を任那の国司として派遣した後で、稚媛を奪って妃とした。こうして磐城皇子と星川皇子が生まれた。稚媛は雄略天皇が死ぬと、星川皇子に反乱を起こすよう説いた。星川皇子は母の言葉に従い、反乱を起こし、大蔵を占領した。しかし大蔵に火を放たれ、星川皇子と稚媛のほか従った者の多くが焼き殺された。吉備上道臣氏は星川皇子を助けようと軍を率いて大和に向かったが、殺されたことを聞いて途中で引き返した。清寧天皇はこれを非難して、吉備上道臣が管理している山部を召し上げたという。