朝倉景綱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
朝倉 景綱(あさくら かげつな、生没年不詳)は戦国時代の武将。朝倉氏家臣。兵庫助。
越前織田城の城主。
1570年に織田信長が朝倉景恒が篭る金ヶ崎城を攻めた時には、景綱は500の軍勢で救援に出たが、景恒は即座に信長に屈し開城して落ち延びている。どっちみち500の兵では、数万の織田徳川勢に対し何もできなかったであろう事は明白であるので、形式的な出陣でしかなかったのではないかとも思われる。
1573年には主君朝倉義景が織田信長軍の勢いに臆して、北近江の戦場から逃走。逃げ切れず織田軍の追撃を喰らって大打撃を受ける、という事件が起こる(刀禰坂の戦い)。その際に義景は景綱に対し、織田軍の更なる追撃の食い止めを命じたが、景綱はその命令を無視して織田城に退却した。
景綱は、そのまま織田の軍門に降り、朝倉氏滅亡後も引き続き織田城を守っている。
だが1576年に本願寺の七里頼周が率いる大規模な一向一揆勢に城を攻められる。織田城に篭城したが多勢に無勢であった為に、景綱は織田城の兵を見捨てて妻子のみを引き連れ城から落ち延びた。その後の消息は不明。