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本因坊 秀哉(ほんいんぼう しゅうさい、1874年 - 1940年1月18日)は、明治から昭和にかけての囲碁の棋士。東京都出身。本名は田村保寿(やすひさ)。名人。家元本因坊家の21世で、終身名人制の最後の名人。引退後に本因坊の名跡を日本棋院に譲渡し、選手権制の本因坊戦創設に導いた。棋風は力戦に強く、「序盤に策あり」と言われた。
[編集] 生涯
[編集] 修行時代
- 1874年(明治7年)1月18日、東京に生まれる。父は内務省勤務の田村保永、伯父は貴族院議員でシーメンス事件での弾劾演説で知られる村田保。保寿は父の趣味の影響で囲碁を覚えた。
- 1885年11歳のとき、方円社に入塾。当時の住み込みの塾生は、塾頭の石井千治、道家富太、杉岡榮治郎、田村保寿の四人だった。田村は、石井千治、杉岡榮治郎とともに方円社の三小僧と呼ばれた。
- 1891年(明治24年)、11月、方円社を除名され、一時期囲碁から離れる。
- 19歳の時に金玉均を介して19世本因坊秀栄門下に入門。秀栄門下でも強さを発揮し、当時他の棋士達をことごとく先二以下に打ち込んでいた秀栄に唯一先を保ち、本因坊継承の最有力候補と見られていた。しかし、秀栄本人は田村の事を嫌い、後を継がせる事に消極的で秀栄が寝込む様になってからは面会も許されなくなった。秀栄は雁金準一の実力が田村に及ばないことを認めながら、田村でなく雁金を後継者に望んでいたふしがある。田村の性格は極めて我が強く、また金銭にうるさい所があり、そういった所が秀栄に嫌われた要因であろうと言われている。
[編集] 本因坊秀哉時代
- 1907年、田村は本因坊継承の運動を盛んに行っていたものの結局秀栄は後継を決めないままに死去。後継者問題で本因坊家内は大いにもめ、田村は孤立無援に追い込まれた。この事態を収めたのは、16世本因坊であり、秀栄の弟の秀元であった。秀元は一旦20世本因坊に就き、一年後田村に本因坊を継がせることでこの事態を収拾した。
- 1908年、34歳で21世本因坊秀哉となる。その後、周りに自分の実力を見せ付けるように他の一流棋士達を先二以下に打ち込む。
- 1914年、41歳の時に名人位就位。名実ともに棋界第一人者になる。
- 1926年、日本棋院対棋正社の対抗戦で、雁金準一と対決。石取りの名局と謳われたスリリングなねじり合いの末に勝利し、不敗の名人の名を高めることとなった。
- 1936年、秀哉は日本棋院に本因坊の名跡を譲渡。世襲制ではなく選手権戦によって本因坊を決める本因坊戦が誕生する。秀哉は後継者として愛弟子の小岸壮二を考えていたといわれるが、意に反し小岸は夭折した。次には前田陳爾に望みを託したが、木谷実、呉清源の活躍の前にその夢も消えた。秀哉には自身の経験から実力第一位のものに本因坊の名を継がせたいという強い思いがあり、本因坊位の世襲制廃止に踏み切ったものと言われる。
[編集] 引退碁・晩年
- 1938年、秀哉は引退を決意。木谷実との歴史に残る引退碁を打つ。双方持ち時間40時間で行われ、6月26日に開始された。何度も打ちかけをはさみ、途中秀哉の入院などもあり終局まで打ち通せるか危ぶまれもしたが、12月4日に終局。結果は木谷の五目勝ちとなった。この対局の観戦記を担当した川端康成は後にこれを小説に起こし「名人」という名で発表している。
- 1940年1月18日、死去。歴代本因坊が眠る本妙寺に葬られた。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク