李茂貞
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李茂貞(りもてい、856年-924年)は五代十国時代の岐の王である。当初は宋文通を名乗っていた。諡は敬王である。
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[編集] 出生
梁州博野(現在の河北省)で生まれた李茂貞は初め唐の近衛兵である「神策軍」の一兵卒であったが、黄巣の乱の鎮圧で活躍して名を挙げて僖宗に近侍を許される。やがてその軍事的功績により節度使に任じられて皇帝の姓である「李」姓を与えられて「李茂貞」と名乗るようになった。
888年、鳳翔節度使の反乱を鎮めた李茂貞はその後任を任じられて検校太尉・侍中・隴西郡王に任じられた。李茂貞は庶民出身であるために民間に通じており、民政に力を注ぎ領内の戦乱による荒廃からの復興を成功させる。
891年、隣接する興元節度使の反乱を鎮めてその本拠であった漢中を支配すると朝廷が派遣する後任節度使を妨害し、腹心を留後(代官)として派遣したため、実質的に2つの節度使を兼任する事となる。これに激怒した唐の昭宗は894年に李茂貞討伐軍を起こすが、李茂貞が倒された場合に次の粛清の対象となることを恐れた他の節度使が皇帝への協力を拒んだために討伐は失敗、李茂貞が関中全域を平定する結果をもたらした。
これに勢いづいた李茂貞は901年に昭宗に迫り「岐王」の称号を授かった上に、皇帝を自分の根拠である鳳翔に遷して遷都を宣言するのである。この時10道20州を統治した李茂貞は帝位を簒奪できる勢力を有するに至った。
[編集] 即位
唐の昭宗より岐王に封じられた李茂貞であるが、急速な勢力拡大に他の節度使が激しく反発し、朱全忠や李克用ら有力者が李茂貞討伐へ動き出す。903年に鳳翔を包囲した朱全忠は蜀の王建と結び挟撃、李茂貞は昭宗を朱全忠に引き渡して降伏した。
領土も二道七州に削減され,没収された領地は朱全忠と王建によって分割された。
907年、朱全忠は唐を滅亡させ後梁を建国する。この動きに合わせ各地方の藩鎮も次々と地方政権を樹立し「王」や「皇帝」を自称するに至った。先の戦いで勢力をそがれた李茂貞であるが王府を開き、百官を設置し自立政権としての体裁を整えた。また居所を宮殿、妻を皇后と称すなどしたが、昔日の勢力は無く、後梁と前蜀にはさまれ細々と命脈を保っていたに過ぎない。
後唐の李存勗が後梁を滅ぼすと、924年に李茂貞はその圧力に屈してその領土を李存勗に献上した。李存勗は後唐の諸侯王として「秦王」の称号を与えたが、国家としての「岐」はここに滅亡した。ほどなく李茂貞は病死する。
[編集] 子女
[編集] 子
- 李従曮