朱全忠
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姓名 | 朱全忠 |
年号 | 開平 乾化 |
廟号 | 太祖 |
字 | - |
諡号 | 神武元聖孝帝 |
生没年 | 852年-912年 |
在位 | 907年-912年 |
朱全忠(しゅぜんちゅう 852年10月21日 - 912年6月2日、在位907年 - 912年)は後梁の創始者にして、初代皇帝。廟号は太祖。諡は神武元聖孝帝。元の名は温であったが黄巣の乱の際の功で唐より全忠の名を賜って改名した。また、皇帝となってから晃と再改名した。なお、幼名は朱三(さん)と呼ばれたという。祖父は朱信だという。
目次 |
[編集] 出生
朱全忠(当時の名は朱温)は貧農出身で少年時代に儒学者であったとも伝えられる父朱誠を失い、兄と共に母の王氏に連れられ親戚に当たる蕭県の富豪の劉崇の家で小作をやっていた。だが彼は農業を嫌って、学問と武芸に励んだという。黄巣の乱が勃発すると、次兄の朱存と共にその家から出奔して、参加し頭角を現した(次兄はその中途で戦死したといわれる)。黄巣軍は長安を落とした後、黄巣自身が学識はあるが政治家としての素質が欠如している事が暴露され、黄巣の大斉は自滅へと進んでいた。
当初より、黄巣は人望のある朱全忠のことを警戒したともいう。当然、朱全忠もその事を敏感に感じ取っていた。蜀にいた唐の将軍の王重栄が朱全忠に密使を遣わした。これを契機に朱全忠は王重栄に内通するようになった。その後朱全忠は長安で黄巣を裏切り、これを撃退してを追い落とした。この戦功で、朱全忠は王重栄はもとより、唐から感謝されて左金吾衛大将軍、河中行営副招討使の地位を与えられ,唐に忠誠を誓う意味である“全忠”の名前を賜った。これ以降、彼は唐の武将として朱全忠と呼ばれるようになる。
[編集] 即位前
朱全忠は節度使に昇進した後、黄巣に対し共に戦った李克用と唐朝内部での主導権争いが発生した。朱全忠はこの抗争に勝利し、唐の実権を掌握するに至った。しかし、この頃の唐は長安一帯を保持するだけの地方政権に過ぎなくなっており、各地にはかつての節度使らが群雄となって割拠していた。
904年、朱全忠は昭宗を殺害し、その九男である13歳の昭宣帝(哀帝)を帝位に即け、禅譲の準備を整えた。907年、朱全忠は昭宣帝から禅譲を受け国号を梁と定め新しい王朝を開いた。山東の済陰王に降格された昭宣帝は哀れにも908年に曹州で朱全忠によって毒殺された。
[編集] 即位後
皇帝に即位した朱全忠は無計画な行動が目立った。同年には腹心の李振・蒋玄暉らの進言によって唐の高官らを黄河へ沈めるべきとの建言を受け、朱全忠も興味を示し実行に移した。こうして、唐の高官であった裴枢・独孤損・崔遠・王溥・趙崇ら30余人が白馬駅で処刑され、その遺体を黄河に放棄したと伝えられる。
また、女性関係にも節度が乏しく、自分の仮子である朱友文の妻とも関係を持ったともいわれる。
912年、年老いた朱全忠は病気がちになり、後継者を仮子(養子)の博王・朱友文(字は徳明)に継がせるようとした。それを不満に思った第三子の朱友珪に殺害され、その帝位を奪われた。
[編集] 宗室
[編集] 后妃
- 元貞皇后張氏
- 昭儀陳氏
- 昭容李氏
[編集] 兄弟
[編集] 甥
[編集] 朱全昱の子
[編集] 朱存の子
名の表記は新唐書に従った。
[編集] 子
[編集] 仮子
[編集] 年号
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