李陽冰
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李陽冰(りようひょう、生没年不詳)は中国・唐代中期の書家。字は少温。趙郡(現在の河北省)出身。それまで忘れられていた篆書を用いた書や刻石をものして一世を風靡し、篆書を書道の一書体として復興させた功績を持つ。
詳しい経歴は不詳であるが、『新唐書』宰相世系表の中に名が見え「将作少監」の官位についていたことが記されているほか、乾元2(759)年に県令となったという記録も残っており、官吏として暮らしながら書作をしていたようである。また墨作りも自ら行っていたと言われている。
李白の親戚と伝えられ、生前から親交が深かった。李白が死去したのも彼の自宅だといわれている。
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[編集] 篆書との出会い
彼が篆書を学んだのは、始皇帝が権力誇示のために立てた「始皇七刻石」の一つ「えき山刻石」(「えき」は「澤」のへんを山へんに変えた字、現存せず)からと言われている。また「碧落碑」と呼ばれる小篆の碑を愛好し、何日も何度も碑に見入っていたという。
いずれも伝説の域を出ないが、かなり早い時期から篆書に傾倒し、その書法を徹底的に学んだのは確かであろう。
[編集] 改革としての篆書復興
中唐の書道界は、「書聖」として神聖視されていた王羲之およびその息子の王献之、いわゆる「二王」の書風を守ろうとする保守派と、それを打ち破ろうとする張旭などの改革派とが対立していた。特に改革派では韓愈が六朝時代以来の四六駢儷文を否定して古文復興運動を行い、二王の書を「俗書」と痛罵したのが代表的である。
これを受けて顔真卿が「顔法」と呼ばれる独自の書法を確立したのに対し、李陽冰は二王以前、すなわち篆書や隷書の世界に戻る復古主義的な方向に向かい、秦代以来絶えていた篆書による書や石刻を復活させたのである。
なお彼は、顔真卿と極めて昵懇の仲であった。顔の書いた碑には多く彼が篆額を書いており、顔の代表作である「顔氏家廟碑」の篆額も彼の手になるものである。また二人がそろって張旭の弟子であったという伝説があることからも、その親交ぶりがうかがえる。
[編集] 作品
彼の書は篆額・銘文などがほとんどであるが、失われて伝わらないものも多い。
現在伝わるものとして代表的なものは、大暦7(772)年に現在の福建省省都・福州郊外の磨崖に刻まれた「般若台題記」である。二十四字の小字数のものであるが、当時「四絶」と賞賛された彼の4つの代表作の中で真蹟として唯一残るものであり、唐代の篆書による書道の実態を示すものとして貴重である。
このほか後漢の許慎による小篆を中心とした字書『説文解字』の校訂も行ったとされるが、散佚して現存しない。
[編集] 関連項目
[編集] 参考資料
- 尾上八郎・神田喜一郎・田中親美監修『書道全集』第10巻(平凡社刊)