張旭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
張旭(ちょうきょく、生没年不詳)は中国・唐代中期の書家。字は伯高。呉郡(現在の江蘇省)出身。草書を極めるとともに、従来規範とされて来た王羲之と王献之、いわゆる「二王」の書風に真正面から異を唱え、書道界に改革の旋風を巻き起こすきっかけとなった。
詳しい経歴は不詳であるが、地元で官位を得たあと長安に上京、官吏として勤めながら顔真卿・杜甫らと交わり書家として活動していた。
大酒豪として知られ、杜甫の詩「飲中八仙歌」の中でいわゆる「飲中八仙」の一人に挙げられているほどである。
目次 |
[編集] 破天荒な急進書家
張旭はその書に対する態度に関しても、また生活態度に関しても、実に破天荒な人物であった。
そもそも草書の筆法を悟ったきっかけが、酒宴で公孫大娘なる舞姫が剣を持って舞うのを見た時だったと伝えられており、杜甫もこれを「公孫大娘舞剣器行」と題した詩に詠んでいる。
このことは、同時代の書家からすればどだい型破りな話であった。当時の書道界は六朝以来、王羲之・王献之親子の「二王」の書法を尊んでおり、書家はまず「二王」の書から学んで書を体得するのが普通だったからである。
また張旭は泥酔しては大声を上げながら筆を揮り、また髪の毛を墨に浸して草書を書き散らすなど、酒に酔っての書作も行い、その書は「狂草」と呼ばれた。前述の「飲中八仙歌」によれば王や貴族の前ですらそうした行動をいとわなかったと詠まれている。
これらの伝説には多分に誇張があるにしても、彼が権威を嫌い、ものともしない破天荒な人物であったことは事実だったようである。このことが彼自身やその書作をそれまでの書道界の「常識」への叛逆と挑戦へと向かわしめたと思われる。
残念ながら彼の書は、あまりにも急進的すぎるため杜甫などごく親しい人以外には受け入れられなかったようだが、彼の登場により「二王」一辺倒の書道界に一石が投じられ、のちの顔真卿ら改革派の書家が台頭するに至ったと考えられる。
なお、顔真卿・李陽冰は彼の弟子と言われているが真偽のほどは定かではない。
[編集] 作品
書家として猛烈な印象を受ける張旭であるが、その書作のうち本物と確定出来るものは現在ほとんど残されていない。
本物とほぼ確定、もしくはかなり確定出来るものとしては「自言帖」と「郎官石記」があるが、前者は二王の書法を踏まえた普通の草書であり、後者は楷書であって、先の伝説に見られるような猛然たる「狂草」ではない。
しかしこれらによって彼の叛逆が単なる叛逆ではなく、「二王」の書法を勉強し尽くした上での叛逆であったことがうかがい知れ、大変に興味深く意義深い書蹟であると言ってよい。
[編集] 関連項目
[編集] 参考資料
- 尾上八郎・神田喜一郎・田中親美監修『書道全集』第8巻(平凡社刊)