松前高広
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松前高広(まつまえ たかひろ)は、江戸時代の大名。蝦夷松前藩の第4代藩主。
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時代 | 江戸時代前期 | |||
生誕 | 寛永20年(1643年) | |||
死没 | 寛文5年7月5日(1665年8月15日) | |||
別名 | 千勝(幼名) | |||
戒名 | 松前院殿漢臣利永大居士 | |||
官位 | なし | |||
藩 | 蝦夷松前藩主 | |||
氏族 | 松前氏 | |||
父母 | 父:松前氏広、母:蛎崎友広の娘 | |||
兄弟 | 松前高広、松前泰広 | |||
妻 | 正室:蛎崎利広の娘 | |||
子 | 松前矩広(長男)、松前忠広(次男)、 娘(松前当広室) |
寛永20年(1643年)、第3代藩主・氏広の長男として蝦夷福山館にて生まれる。慶安元年(1648年)、父の死去により後を継ぐ。しかしわずか6歳のため、藩政は一族の蛎崎友広(松前慶広の甥)や蛎崎利広らによって執行され、特に藩政で高広の見るべきところはなく、寛文5年(1665年)7月5日に23歳の若さで死去した。後を長男の矩広が継いだ。墓所は北海道松前郡松前町字松城の大洞山法鐘寺。
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