松川敏胤
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松川 敏胤(まつかわ としたね、安政6年11月9日(1859年12月2日) - 昭和3年(1928年)3月7日)は、日本の陸軍軍人。軍事参議官・朝鮮軍司令官・東京衛戍総督や第10・第16師団長を歴任し、階級は陸軍大将勲一等功二級に至る。宮城県出身。
陸軍士官学校で学び、明治15年12月25日陸軍歩兵少尉に任官される。士官生徒第5期(所謂旧5期)の松川の同期には青島守備軍司令官の由比光衛大将や第5師団長小原伝中将、第17師団長の星野金吾中将等がいる。松川は陸軍大学校に進み、明治20年外6名の卒業生と共に第3期で卒業、優等の成績を修める。中佐であった明治32年6月8日からドイツ公使館附を命ぜらる。明治34年11月3日に陸軍大佐に進級。帰国して明治35年5月5日から参謀本部第1部長兼東部都督部参謀長を命ぜられる。明治37年6月20日から臨時編成の満州軍作戦参謀として日露戦争に出征、明治38年1月30日陸軍少将に進級する。明治39年4月25日から参謀本部第1部長兼第5部長に補せられる。明治39年11月19日に第5部長の兼職を解かれる。明治41年12月21日歩兵第6旅団長に移り、明治44年9月6日歩兵第2旅団長に移る。明治45年1月14日第10師団長に進み、同2月24日を以って陸軍中将に進級する。大正3年8月8日から第16師団長に移り、大正5年8月18日には東京衛戍総督に就任する。大正6年8月6日朝鮮駐剳軍司令官に進み、大正7年6月1日軍の呼称変更に合わせて朝鮮軍司令官に就く。大正7年7月24日就任の軍事参議官を経て大正11年11月24日待命となり、翌年の3月23日予備役編入となる。昭和3年3月7日逝去。 日露戦争中の松川は、何事においても自分中心主義で「他人はただ自分の言うことに従っていればいい」という態度であり、優れた頭脳とは裏腹に人望は無かった。
[編集] 栄典
- 勲一等旭日桐花大綬章:昭和3年3月7日
- 勲一等旭日大綬章:大正8年6月28日
- 勲一等瑞宝章:大正3年5月16日
- 功二級金鵄勲章:明治39年4月1日
- 功四級金鵄勲章
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