松平信古 (上山藩主)
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松平 信古(まつだいら のぶふる)は、江戸時代後期の大名。出羽上山藩の第5代藩主。藤井松平家嫡流10代。
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時代 | 江戸時代前期 | |||
生誕 | 明和7年1月9日(1770年2月4日) | |||
死没 | 寛政8年10月4日(1796年11月3日) | |||
戒名 | 賞桜院殿前越州清誉桂山白心大居士 | |||
墓所 | 東京都港区高輪の松光寺 | |||
官位 | 従五位下、山城守 | |||
藩 | 出羽上山藩主 | |||
氏族 | 松平氏 | |||
父母 | 父:松平信亨、母:鳥居氏 | |||
兄弟 | 松平信古、松平信恭、松平信愛、鋭丸 | |||
妻 | 正室:深溝松平忠恕の娘 | |||
子 | 養子:松平信愛 |
明和7年(1770年)1月9日(明和6年(1769年とも))、第4代藩主・松平信亨の長男として生まれる。明和9年(1772年)11月11日に世子として指名され、天明7年(1787年)12月18日に従五位下、安房守に叙位・任官する。寛政2年(1790年)2月20日、父が隠居したため、家督を継いで第5代藩主となった。2月21日には山城守に遷任する。
しかし父時代からの藩財政の困窮に加え、相変わらず藩政改革の主導権をめぐって家臣団の争いが続き、しかも隠居した信亨と藩主の信古は藩政を顧みず、放漫奢侈な生活を繰り返してさらなる財政難を招いたために脱藩者まで起こる始末であった。しかも信古は改革派を疎んじて改革派を排斥している。
寛政8年(1796年)10月4日(10月14日とも)、父の後を追うように死去。享年27。後を弟で養子の信愛が継いだ。
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