松平信亨
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松平 信亨(まつだいら のぶつら)は、江戸時代後期の大名。出羽上山藩の第4代藩主。藤井松平家嫡流9代。
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時代 | 江戸時代中期から後期 | |||
生誕 | 延享3年1月28日(1746年3月19日) | |||
死没 | 寛政8年9月12日(1796年10月12日) | |||
別名 | 冬松(幼名)、勘四郎(通称) | |||
諡号 | 澄月 | |||
戒名 | 華台心院殿霊誉澄月祐厳大居士 | |||
墓所 | 東京都港区高輪の松光寺 | |||
官位 | 従五位下、山城守、大蔵少輔 | |||
藩 | 出羽上山藩主 | |||
氏族 | 松平氏 | |||
父母 | 父:松平信将、母:毛利氏 | |||
兄弟 | 松平信亨、久米、政、松平忠融 | |||
妻 | 正室:毛利重就の娘 側室:鳥居氏、沢野氏、一円氏、山下氏 |
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子 | 松平信古(長男)、松平信恭(次男)、松平信愛(四男)、 鋭丸、娘(三枝守典室)、娘(松平信行正室) |
延享3年(1746年)1月28日、3代藩主・信将の長男として生まれる。宝暦11年(1761年)、父の死去で家督を継いで第4代上山藩主となる。宝暦12年(1762年)12月28日、従五位下、山城守に叙位・任官した。その後は大坂加番や外桜田門番などを歴任したが、もともと和歌や俳諧、書画に優れた文化人だったためにそちらの世界に次第に傾倒して藩政を顧みなくなり、藩財政のさらなる窮乏を招いた。
このため、藩内では家臣団が藩政改革の主導権をめぐって争う。明和8年(1771年)には藩財政再建のため、過酷な検地を実施することによる年貢のつり上げを図ったが、農民の激しい反対にあって失敗に終わった。安永9年(1780年)には藩政を顧みない信亨を強制的に隠居させようという家臣団の陰謀が発覚する有様で、このような一連の騒動が幕府に知られて、寛政2年(1790年)2月20日に幕命によってほとんど強制的に家督を長男・信古に譲って隠居することとなったのである。
しかし隠居後も華美な生活を送ったとされる。寛政8年(1796年)9月12日に死去。享年51。
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