柳生俊益
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柳生俊益(やぎゅう とします、嘉永4年2月16日(1851年3月18日) - 昭和2年(1927年)9月2日)は、大和柳生藩の第13代(最後)の藩主。高家旗本・武田信之の五男。第12代藩主・柳生俊順の実弟。正室は四辻公績の娘・富子と多鶴子。官位は従五位下、但馬守。
嘉永4年(1851年)2月16日生まれ。初名は柳生俊益。文久2年(1862年)に先代藩主で兄の俊順が死去したため、その養嗣子として後を継いだ。幕末の動乱期の中でははじめは佐幕派で、京都警備や摂津の海上警備、大坂警備などを務めている。しかし藩内で尊皇派と佐幕派が対立し、一時は将軍の剣術指南役ということから佐幕派が優位に立ったが、後に尊皇派が盛り返して血を見る騒動にまで発展し、最後は尊皇派となった。
明治2年(1869年)、版籍奉還により藩知事となる。このとき、俊郎(としろう)と改名した。その後、藩政改革を行なった。明治4年(1871年)、廃藩置県により免官される。後に子爵となった。昭和2年(1927年)9月2日、77歳で死去。法号:雄心院殿機山宗輪大居士。墓所:東京都練馬区桜台の広徳寺。
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