桂春輔
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桂 春輔(かつら はるすけ)は、上方落語の名跡。桂春團治の系統。現在は空き名跡となっている。
[編集] 初代
初代 桂春輔(1881年 - 1948年)は、本名: 浅川重太郎。
初め6代目林家正楽門下で正隆。後、初代桂春團治門下で春輔を名乗る。東京の5代目三升家小勝門下で勝團治を名乗っていた時期もあるという。後に5代目笑福亭松鶴が主催する「楽語荘」同人に加わり、上方落語の保存・継承に努めた。神戸を中心に活躍し「神戸の春團治」、また色黒のため「黒の春輔」とも呼ばれた。
『阿弥陀池』『坊主茶屋』『地震加藤』など、初代春團治譲りの明るい芸であったが、精緻さに欠ける欠点があったという。戦後暫く5代目松鶴とともに高座を勤めていたが、1948年秋、兵庫の「寄席のパレス」(国鉄の高架下にあった)に出演中、栄養失調で倒れ、入院後間もなく胃癌で死去。
3代目桂米之助の話「…いつもこんな事を言うてハりました。"なあ、お客さん、大阪の落語を聴くネンやったら今の内だっせ。楽屋に今、十人の噺家がいとりまっけどな、一年に一人ずつ死によったら十年たったらもう落語ないねんさかいに、聴くねんやったら今の内"と言うて自分が一番先に死にやハりました。(笑)」(『上方落語よもやま草子』)
毒舌家で、高座では客や芸人仲間の悪口、世相風刺を語るのが得意であった。かなりの腕を持ちながらも、上方落語の低迷期に活躍したのが不運であった。
[編集] 2代目
2代目 桂春輔(1936年2月27日 - )は、後の祝々亭舶伝。
[編集] 出典
- 『古今東西落語家事典』(平凡社、1989年)
- 『上方落語よもやま草紙』(三代目桂米之助著、たる出版、1998年)