桓範
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桓範(かんはん、199年?-249年)は、三国時代の魏の武将。字は元則。
豫州の人。曹真と同郷の出身者で、家柄にも由緒があったため、曹真の子供である曹爽らから先輩として慕われた。智謀に優れていたため、曹爽が魏の政権を掌握するとその参謀となり、大司農に任じられた。司馬懿が曹叡の死後、十年も経てクーデターを決行したが、曹爽の知恵袋であった桓範は間一髪、主の下に逃げ延びた。その際、司馬懿の部下たちは慌てたが、司馬懿は「駑馬短豆を食う。(平凡な人は、目先の利益にありつこうとする)官位欲しさの忠義立てだろうが、どんなに献策しようと曹爽は取り上げはすまい」と相手にしなかった。 桓範は先手を取られた曹爽に対し、許昌で帝を擁して再起を図るように進言したが、曹爽は司馬懿から、解任のみを条件に放免する、と言われると戦意をなくし桓範の進言を聞き捨てた。結果、司馬懿の言葉通りになり、その言葉は以後格言として残った。
曹爽とその一族の処刑に伴い、連座として桓範とその三族も皆殺しとされた。なお、司馬氏の東晋から簒奪一歩手前まで行った桓温は、桓範一族の生き残りという説がある。
文学者としても優れており、王象らと共に『皇覧』を編集した。