禅譲
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禅譲(ぜんじょう)とは、一般的には、天子(ほとんどの場合、皇帝)が、その地位を血縁の者でない徳のある人物に譲ることである。しかしながら、歴史上「禅譲」と称されても、譲られる側が強制して行われることが多い。このような場合を簒奪(さんだつ)という。また、天子に限らず、比喩的に地位を平和裏に譲ることを禅譲、無理やり地位を奪うことを簒奪ということがある。言い換えれば、中国の歴史で「禅譲」が行われてきたことを踏まえ「首相や大統領、社長などの地位を他の有力な人物に譲ること」を指す。
[編集] 中国伝説における禅譲
中国の伝説上の聖天子は、血縁関係によらず、徳のある人物に帝位を譲った。例えば、五帝と呼ばれる天子たちは、堯が舜に禅譲し、舜が禹に禅譲した。
このような伝説は、儒家が過去を理想化する中で生まれた。実際は過去においても、権力の受け渡しはこのように平和裏に行われるものであったはずはなく、武力で奪ったり、奪われたりしたはずである。しかし、それでは現在国を支配している皇帝に、皇帝であり敬うべき存在であるという正当性が確立できず、儒家の思想の根幹たる礼が成立しないためと考えられる。
あるいは、太古においては帝にさしたる権力、利権がなかったため世襲の対象となっておらず、有力部族長の持ち回りだったなどの経緯を反映している可能性もある。
[編集] 歴史上の禅譲
実際に歴史上禅譲と呼ばれているものは、ほとんど簒奪と呼ぶべきものであり、王朝の正当性を保証するために偽善的に行われ続けた。
中国史で、最初の禅譲は8年、前漢の最後の皇帝孺子嬰から、王莽に皇帝の地位を譲り渡すものであった。なお、王莽はこれをうけて新王朝を開いた。
その後も、王朝交代のたびに禅譲が行われていった。
(禅譲した王朝)→(禅譲によって成立した新王朝)
歴史上の禅譲のパターンはおおむね下のようにまとめられるであろう。
- 王朝の衰退
- 王朝内部での新たな有力者の登場
- 幼帝など、実権のない皇帝が即位(有力者が禅譲させるために即位させることが多い)。
- 有力者が、公位を与えられる
- 有力者が、王位を与えられる
- 有力者が、九錫を与えられる(公・王位と同時や、前後することもある)
- 各方面から異兆が報告されるなど、王朝交代への雰囲気作りがなされる
- 現皇帝が、有力者に皇帝となるように要請するが、有力者はこれを固辞する
- もちろんこれは演技であり、固辞することで自らの徳の深さを見せ付けるのである
- 有力者が、しぶしぶ現皇帝から皇帝の位を譲り受ける
- これももちろん演技であり、固辞することで自らの徳の深さを見せ付けるのである
- 有力者(新皇帝)は王朝名を自らの封国のものに変更し、新しい王朝となったことを宣布する
- 前皇帝は、新皇帝によって領地を与えられ、王侯となる
禅譲の手順は、魏の曹操(武帝)・曹丕のものが先例となったことから、「魏武輔漢の故事」と称されている。
ちなみに、日本の南北朝を巡る「正閏論」において、現在の皇室が北朝系であるにも関わらず南朝の天皇を正統とした明治天皇の勅裁が出されたことについて、『南朝最後の後亀山天皇から北朝の後小松天皇への禅譲が行われた』ので矛盾は存在しない(頼山陽の説)ものとされ、戦前の日本においてこれを疑問視することは事実上禁じられていた(禅譲の儀式が行われた事実はなく、又当時の北朝は南北合一後も上皇待遇とはしたものの後亀山即位の事実はみとめてはいない)。