梅尭臣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
梅 堯臣(ばい ぎょうしん、1002年(咸平5年) - 1060年(嘉祐5年))は中国・北宋代の詩人。字は聖兪。宣州宛陵(現在の安徽省宣州市)の人。その出身地から梅宛陵・宛陵先生、最終の官名から梅都官と呼ばれる。その詩風は宋詩の基礎をつくった。
目次 |
[編集] 略伝
13歳になると叔父・梅詢のもとで詩文を学んだ。26歳の時謝氏と結婚。科挙に及第することなく、29歳のとき恩蔭によって官途に就いた。太廟斎郎から始まって、桐城(安徽省)の主簿など地方官を歴任した。30歳のとき洛陽で銭惟演に詩才を認められ、親友となる欧陽脩らと知り合った。さらに地方官を転々とするうち、1044年7月から、妻と息子を相次いで失った。このころから家族、とくに亡き妻のことを題材にした詩が多くなる。2年後刁氏と再婚するものの、それ以降も謝氏への追憶を詩にすることがよくあった。
その後も父・梅譲の死などがあり、低い官位のままで生活は苦しかった。1051年、進士出身を賜り、太常博士になった。母の死に際して喪に服した後、1057年、欧陽脩の推薦によって中央での官である国子監直講になり、翌年科挙の試験官となった。このとき及第した者のなかには蘇軾・蘇轍兄弟、曾鞏がいた。
1060年、尚書屯田司員外郎・刑部都官員外郎に至ったが、当時都に流行した疫病により59歳で亡くなった。
[編集] 詩風
詩を作るにあたって梅堯臣は平淡を旨とした。これは晩唐から流行していた西崑体の、華麗な表現に主眼を置き過ぎて難解になりがちな詩風に反対するものである。また身近なことを題材に詩を詠んだのも特徴のひとつである。例えば、犬猫から蝿やミミズなどの小動物、農具など生活に身近な物を詠んだりと、今まで誰も用いなかったようなものを題材とする詩が多く、何でもかんでも詩にしてしまったという具合である。さらにそれらの題材に仮託して、詩の中である事物に対する議論が行われている。また地方官勤めが長かったため、世の矛盾に対して辛辣な批判を述べる社会派の詩も多い。
このような梅堯臣の詩風は、「かめばかむほど味が出る」と評されたが、その平淡さゆえに派手さがなくわかりにくいなどの批判がある。そのためか漢詩にある種の優美さを求める日本人にはあまり人気がない。
詩では蘇舜欽とともに「蘇梅」と並称されている。