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森﨑和幸 |
名前 |
愛称 |
カズ |
カタカナ |
モリサキ カズユキ |
ラテン文字表記 |
MORISAKI Kazuyuki |
基本情報 |
国籍 |
日本 |
誕生日 |
1981年5月9日 |
出身地 |
広島県広島市安芸区 |
身長 |
176cm |
体重 |
74kg |
血液型 |
O型 |
選手情報 |
在籍チーム |
サンフレッチェ広島 |
ポジション |
MF |
背番号 |
8 |
利き足 |
右足 |
|
■Template(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
森﨑 和幸(もりさき かずゆき、1981年5月9日 - )は、広島県広島市安芸区矢野出身のサンフレッチェ広島所属のサッカー選手。サポーターやチーム内での愛称は「カズ」。広島県立吉田高校卒業。双子の弟は森崎浩司。
[編集] 経歴
少年時代から弟の森﨑浩司とともに広島で名をとどろかせ、矢野中学校からサンフレッチェ広島ユースへ入団し、中央のMFとして活躍した。1999年高校3年次には2種登録選手となり、サテライトでのパフォーマンスがエディ・トムソンに認められ、広島チーム史上初高校生Jリーガーとして11月20日、ガンバ大阪戦に初出場した。(ちなみに、この試合で弟の浩司が初ベンチ入りしている)。トムソンにも気にいられ、その年はその後の公式戦に全試合出場し、天皇杯決勝進出の立役者の一人となった。
翌2000年にサンフレッチェ広島とプロ契約。リーグ2戦目には、森保一に代わり先発出場。その後も主力としてリーグ終盤まで出場し、Jリーグ新人王を獲得した。
年代別代表では、2001年に森崎浩司・駒野友一とともに、ワールドユース代表に選出されて出場、翌2002年には釜山アジア大会にU-21サッカー日本代表として出場した。しかし、2004年アテネオリンピックでは予選に出場するも、本選メンバーには選ばれなかった。
一方広島では、2001年にはヴァレリー・ニポムニシに認められ、それ以降ボランチとしてチームの中心となり活躍、両サイドの駒野友一・服部公太を操り、第2ステージ3位となる原動力となった。その後2004年にはチーム事情からトップ下へ、2005年にはキャプテンに就任、1ボランチとして全試合に出場し、持ち前のパスさばきでチームを支えた。2006年、ミハイロ・ペトロヴィッチ監督に代わってからはCBにコンバートされ、戸田和幸、盛田剛平とともに、硬いDFラインを築いた。
[編集] プレースタイル
キープ力が高く、ショートパスで試合を作る右利きのゲームメイカー。戦術理解度が高く、ボランチをメインに、トップ下やフォワード、センターバックをこなす。
[編集] エピソード
- 弟の森崎浩司
- 一見顔が似ているためよく間違えられるが、二卵性双生児である。
- 簡単な見分け方として、右利きで鼻の下にホクロがある方が兄の和幸、左利きでホクロがない方が弟の浩司。また最近は浩司が髪を染めているので、以前に比べて見分けやすくなった。
- 公式戦でダブルボランチ・2シャドーと横の関係だけでなく、兄ボランチ・弟トップ下、兄リベロ・弟ボランチと縦関係でも出場経験がある。
- 2004年5月5日J1・1st第8節対セレッソ大阪戦(長居スタジアム)にて初アベックゴール(48分和幸、89分浩司)、2007年開幕時点でアベックゴールはその試合のみ。また双方ともに絡んだゴールは、2006年10月22日J1・第28節対セレッソ大阪戦(長居第二)であげており(89分和幸ゴール浩司アシスト)、これもまたその試合のみ。
- 森崎和幸の名前から、サポーターやチーム内での愛称は「カズ」
- 本人も「サッカー選手で『カズ』といえば三浦ではなく森崎と呼ばれるようになりたい」と、この愛称を好んでいる。
- 2006年に戸田和幸が移籍加入したが、チームでの戸田の愛称は「トダ」あるいは「カズさん」となった。
- 2007年から公式用ユニフォーム背番号の下に「KAZU」と下の名前が入るようになった。ちなみに弟の浩司のほうは「KOJI」。
- 山出久男(現サンフレッチェ広島普及部長スクールマスター)は矢野FC時代の恩師。
- ユース時代の同級生は、森崎浩司、駒野友一、久保田学。
- プロ同期入団は、森崎浩司、駒野、八田康介、松下裕樹、山形恭平、中山元気。
(7人全員が当時U-18代表であったため、期待を込めて「スーパー7」と言われていた。)
- 2007年開幕時点で下田崇、服部公太に次いで3番目のチーム古参となる。
- 吉田高校時代は成績が学年トップで、得意な科目は数学だった。
- オーバートレーニング症候群
最初に見られたのは2003年、J2での昇格争い中の広島とU-21日本代表双方のレギュラーとしてフル出場していた時に、その傾向が見られたため、1週間程度休んだ。2006年4月29日(公式発表)オーバートレーニング症候群と診断され離脱、同年6月に回復し、10日には練習復帰した。ちなみに、森崎浩司も2005年にバーンアウト症候群にかかっている。
[編集] プロフィール
[編集] 所属クラブ
[編集] 背番号
- 38 (1999年):2種登録
- 20 (2000年)
- 8 (2001年 - )
[編集] 出場歴・タイトル
[編集] 個人タイトル
[編集] クラブチーム
- アンダーカテゴリー
- 全国少年サッカー大会 (1993年)
- 全国中学校サッカー大会 ベスト16
- Jユースカップ 準優勝(1997年)
- 国民体育大会広島県代表(1998年、1999年)
- クラブチーム
[編集] 日本代表
- アンダーカテゴリー
- U-18日本代表(1999年)
- U-19日本代表(2000年)
- イランアジアユースU-20日本代表(2000年)
- アルゼンチンワールドユースU-20日本代表(2001年)
- 釜山アジア大会U-22日本代表(2002年)
[編集] 個人成績
年度 |
チーム |
リーグ |
背番号 |
リーグ戦 |
カップ戦 |
天皇杯 |
J1 |
J2 |
出場 |
得点 |
出場 |
得点 |
出場 |
得点 |
出場 |
得点 |
1999年 |
広島 |
J1 |
38 |
3 |
0 |
- |
0 |
0 |
5 |
0 |
2000年 |
広島 |
J1 |
20 |
24 |
3 |
- |
4 |
0 |
2 |
0 |
2001年 |
広島 |
J1 |
8 |
26 |
1 |
- |
3 |
0 |
2 |
0 |
2002年 |
広島 |
J1 |
8 |
25 |
1 |
- |
2 |
0 |
4 |
2 |
2003年 |
広島 |
J2 |
8 |
- |
41 |
1 |
- |
2 |
0 |
2004年 |
広島 |
J1 |
8 |
28 |
5 |
- |
5 |
0 |
1 |
0 |
2005年 |
広島 |
J1 |
8 |
34 |
4 |
- |
6 |
0 |
2 |
1 |
2006年 |
広島 |
J1 |
8 |
26 |
2 |
- |
1 |
0 |
2 |
0 |
2007年 |
広島 |
J1 |
8 |
|
|
- |
|
|
|
|
通算 |
166 |
16 |
41 |
1 |
21 |
0 |
20 |
3 |
[編集] コマーシャル出演
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク