エディ・トムソン
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エディ・トムソン(Eddie Thomson、1947年2月25日 - 2003年2月20日)はスコットランド・ロズウェル出身の元サッカー選手(DF)・サッカー指導者。
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[編集] 経歴
ハーツでプロ生活をスタートし、スコットランド代表U-22代表に選ばれる。その後アバディーン、サンアントニオ・サンダー(北米サッカーリーグ)でプレーした後、オーストラリアン・ナショナルサッカーリーグのシドニー・シティーで現役引退。
引退後、1980年からシドニー・シティーで指導、オーストラリア最優秀監督にも3度選出(1981年、1984年、1985年)された。
1984年からオーストラリア代表スタッフへ。1990年からは代表監督に就任。兼務していた五輪代表監督として1992年のバルセロナ五輪では4位入賞を果たし、ハリー・キューウェルやマーク・ビドゥカの才能を開花させた。
1997年から4年間Jリーグ・サンフレッチェ広島の監督を務める。当初は攻撃的なサッカーをしたかったようだが、チームの財政難から主力放出を余儀なくされ、戦力が常に整わず、カウンターアタックを信条とするサッカーを実践し、J2降格しないように勤めた。オーストラリアコネクションを活かし、グラハム・アーノルド、ハイデン・フォックス、トニー・ポポヴィッチ、アウレリオ・ヴィドマー、スティーブ・コリカを連れてくる一方、久保竜彦や服部公太や下田崇、森崎和幸や藤本主税ら若手の底上げを図った。
2000年シーズン終了後、オーストラリアへ。2002年3月、すい臓ガンの摘出手術を行ったが 、同年暮れに再発、入退院を繰り返していた。2003年に悪性リンパ腫のためシドニー市内の病院で、55歳で亡くなった。
[編集] エピソード
- 人柄は所謂「オヤジ」タイプであった。コーチに任せ自分は練習に遅れたり、選手に激しい雷を落としたり、「チーム内にボスは1人だけでいい」と言い放ったりした。それでいて温かな人間性を見せたり、陽気なところもあった。
- フィリップ・トルシエに対し、Jリーグ軽視について強く非難、オフレコで「トルシエは帰ってもらった方が良い」と言うなど批判的であった。実は、次の日本代表監督を狙っていたためとも思われる。
- オズワルド・アルディレス、スティーブ・ペリマンと試合後口げんかをやりあったことがある。ちなみに、彼らは仲のよい友人である。
- アルディレスは「サッカーは得点しなければ勝てないことを、広島に教えるべきだ。あれでは選手があわれだ」と、ばっさりと切り捨てた。それを受けてトムソンは『辞書にはない英語』で反論した。
- 初Vを目指し4連勝と波に乗る清水に対し、広島は極端に守備的な布陣を敷いて対抗、見事2-0で勝利した。試合終了後、トムソンとペリマンはベンチを飛び出し、お互いに罵りあった。
トムソン「スティーヴィ、オジーを連れ戻したほうがいいぞ。こんなプレーをしてたんじゃ、リーグ優勝なんてできないからな」。
ペリマン「どうしてだれもおたくのチームのプレーを見に来ないかしってるか?とても退屈だからだよ」。
- 柳沢敦をマンチェスター・ユナイテッドのアレックス・ファーガソンに紹介したことがある。
- 浦和レッドダイヤモンズがネディエリコ・ゼリッチを獲得するにいたったのは、トムソンがハンス・オフトに紹介したことから。
- 2002年、病魔に襲われながらも広島のJ2降格危機に対して激励のファックスを送っていた。
[編集] 選手経歴
- ハーツ(スコットランド) 1966-1973
- アバディーン(スコットランド) 1973-1976
- サンアントニオ・サンダー(北米サッカーリーグ) 1976
- シドニー・シティー(オーストラリア) 1977-1980
[編集] 代表歴
- スコットランド代表U-22代表
[編集] 指導者経歴
- シドニー・シティー(オーストラリア): 監督 1980-1986
- オーストラリア最優秀監督 1981,1984,1985
- オーストラリア代表: アシスタントコーチ 1984-1988
- シドニー・オリンピック(オーストラリア): 監督 1986-1989
- オーストラリア協会コーチングディレクター: 1989-1990
- オーストラリア代表、五輪代表: 監督 1990-1996
- サンフレッチェ広島: 監督 1997-2000
[編集] 監督成績
年度 | 所属リーグ | 大会名 | 試合数 | 勝ち点 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 順位 | チーム |
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1997年 | J | 1nd | 16 | 21 | 8 | 8 | - | 10位 | サンフレッチェ広島 |
2nd | 16 | 15 | 5 | 11 | - | 13位 | |||
1998年 | J | 1nd | 17 | 19 | 7 | 10 | - | 13位 | |
2nd | 17 | 24 | 9 | 8 | - | 9位 | |||
1999年 | J1 | 1nd | 15 | 27 | 9 | 6 | 0 | 6位 | |
2nd | 15 | 21 | 7 | 7 | 1 | 8位 | |||
2000年 | J1 | 1nd | 17 | 19 | 7 | 7 | 1 | 10位 | |
2nd | 17 | 18 | 6 | 8 | 1 | 11位 |
[編集] 関連項目
[編集] 関連サイト
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