武田信方
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武田 信方(たけだ のぶかた、? - 天正10年(1582年)?)は戦国時代の武将である。若狭守護武田信豊の子。兄に武田義統がいる。彦五郎と称す。法名帰雲寺殿前金吾菊潭宗英大居士。
天文21年(1552年)3月20日、武田氏の元被官である粟屋右馬允が近江から若狭へ攻め込み各地に放火するという事件が起こるが、この時、信方は大将として粟屋勢と二度に渡って合戦、近江へ退却させている。
弘治2年(1556年)、父信豊と兄義統の間に対立が起こり内乱へと発展し、信豊の弟である宮川霞美が城主武田信高が討死すると、その跡を継いで城主となり、若狭武田氏の軍事力を掌握する。
永禄10年(1567年)、兄義統が没する数ヶ月前に叛乱を企むが、この時は信方の家臣団が反対し家中を退くという挙に出たため、不成功に終わった。
元亀元年(1570年)4月、越前の朝倉義景を攻めるため、織田信長が若狭に入ると、武田氏被官人の多くが彼を出迎え、朝倉攻めの先陣を務めたが、信方は朝倉と結んで信長に抵抗した。浅井長政の挙兵により朝倉攻めが失敗し、同年9月から10月にかけて朝倉軍が近江坂本へ出兵、別働隊が若狭にも侵攻すると、信方は若狭の統治を任せられる。10月22日には織田方の山県氏の居城ガラガラ城を武藤友益とともに攻めている。
天正元年(1573年)8月、朝倉義景が滅亡すると、信方は若狭を退転、以後消息不明となる。
天正10年(1582年)、甲斐武田氏が滅んだ際、匿われていた信方は生け捕られて殺害されたというが、没年は天正13年(1585年)、天正14年(1586年)とも言われている。