毛利重政
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毛利 重政(もうり しげまさ、天文20年(1551年) - 慶長2年5月6日(1597年6月20日))は、安土桃山時代の武将。豊後国日出城代。森高次の二男、後室は大神親長の女。嫡男は毛利重次。弟に毛利高政がいる。
幼名は兵吉。通称は兵橘。官位は従五位下、豊後守。
尾張国出身。当初、森姓を称していた。父高次が豊臣秀吉の馬廻衆であったことから、天正初年に羽柴家へ出仕している。同10年(1582年)6月、備中高松城攻略中、本能寺の変が起きた。秀吉は主君の仇を討つべく、中国大返しを計画する。このとき毛利氏へ人質として送り出されたのが重政、弟高政である。高政が毛利輝元に気に入られて、毛利姓を贈られたので、以後名乗るようになる。
1587年(同13年)、金切裂指物使番に任じられ、阿波板東郡の内(鳴戸市付近)で1082石。1587年(同15年)の九州平定、1592年(文禄元)の文禄の朝鮮出兵では舟奉行を務める。
1594年(文禄3年)、前田玄以の与力となり、豊後速水郡の内で10000石の朱印を受け、日出城を預けられた。併せて同郡の蔵入地代官も兼務。旧城主の大神親長の女を後室に迎える。キリシタンであったことから、日出の若宮八幡宮の社殿を破却せしめ、神体を海中に投じたともいう。1597年(慶長2年)5月6日、日出にて死去。享年47。