毛利高慶
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毛利 高慶(もうり たかよし・またはたかやす、1675年(延宝3年) - 1743年10月29日(寛保3年9月13日))は、豊後国佐伯藩の第6代藩主。父は森藩主久留島通清(高慶は六男、ただし五男とも言われている)。母は安部氏。正室は宗義真の娘。子に高通、高能、南部信之、娘(戸田忠言室)、娘(片桐貞芳室)。官位は従五位下、周防守。
延宝4年(1675年)4月、森に生まれる。貞享5年(1688年)7月27日に実兄で5代藩主の毛利高久の養子となり、高定と名乗った。そして元禄12年(1699年)5月13日の兄の隠居により、家督を継いで藩主となった。このとき、高慶と改めている。藩政においては飢饉や地震による災害が相次いだ。高慶は有能な人材の登用や信賞必罰制の推進、さらには文武の奨励や製紙・製炭業を中心とした殖産興業政策の推進も行なう。また、治水工事や関所の整備、漁業政策や畜産業の奨励も行なうなどして藩政改革の多くに成功を収め、佐伯藩の中興の名君と称された。また、仏教に対する信心も深かったようで、佐伯湾内の八島に八大竜王堂などを建立している。
寛保2年(1742年)8月7日、家督を養嗣子(孫)の毛利高丘に譲って隠居し、翌年9月13日に69歳で死去した。法号は源林院。墓所は大分県佐伯市の養賢寺。
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