民法典論争
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民法典論争(みんぽうてんろんそう)とは、1889年(明治22年)から1892年(明治25年)の日本において、旧民法(明治23年法律第28号、第98号)の施行を延期するか断行するかを巡り展開された論争。
なお、この論争と同時期に刑法典・商法典を巡る論争も行われて、旧刑法の全面改正と旧商法の施行延期が行われた。このため、3つの法典を巡る論争をまとめて「法典論争(ほうてんろんそう)」と呼称する事がある。
(刑法典・商法典の論争については、それぞれ刑法・商法の項目を参照のこと)
[編集] 旧民法
近代以前の日本においても民事裁判は存在したが、体系的な民法典は遂に作成される事はなかった。そもそも日本を含めた東アジア文化圏においては、民衆は政治的に無権利であり、かつ法的権利も支配者の統治の絶対性を前提としたものであった。従って、当時の幕藩体制の司法制度は専ら刑事裁判の遂行のためのものであり、民事に関しては当事者間の話し合い(相対)による解決が付かない場合にのみ「お上からの恩恵」として仲裁に乗り出すと言う名目で民事裁判が行われたものであり、民衆を法的に救済する制度ではなかった。
だが、欧米列強との交渉が始まると、日本に民法典が無いことが列強による治外法権を正当化させる理由の一つに挙げられて、幕末から明治初期の日本において、不平等条約改正という政治的課題の一つとして民法典の整備が急務とされていた。
幕末には箕作麟祥や栗本鍬雲ら開明派の幕臣がフランスのナポレオン法典(フランス民法典)を範にして求める事を提案したが江戸幕府の滅亡によって実現しなかった。それでも、箕作は新政府の仕官後の1874年に5年間の歳月をかけてその邦訳を完成させた。
その頃、司法卿江藤新平は箕作麟祥によるナポレオン法典の邦訳を支援して、同法典の直輸入の検討も含めた早期の民法制定を指示して、太政官や司法省を中心に何度か民法の案が作成された(1870年の「民法決議」、1872年の「皇国民法仮規則」、同年の「司法省民法全議」、1873年の「民法仮規則」)。やがて、1878年に箕作麟祥と牟田口通照を中心となって民法草案が完成された(「明治11年民法草案」という)が、時の司法卿大木喬任はナポレオン法典の丸写しのような内容に不満を抱いたために採用されることは無かった。その間にも遅々として進まない司法省の草案作成に業を煮やした内務省(戸籍などを扱う)や農商務省(物権・債権の早期定義付けを求めた)からは、独自に民法草案の研究を開始する動きが見られた。
そのため大木は、1880年にいわゆる御雇外国人として明治初期における日本の法学教育や立法などに功績を挙げたフランス人法学者ボアソナードを中心に新しい民法草案の作成を指示した。彼はフランス人ではあったが、ナポレオン法典の直輸入には反対してあくまでも日本国内の事情にも配慮した民法典を作成すべきであると主張していた(大木もこの考えに同意して、この年と1883年に民事法に纏わる全国的な慣習法調査が行われて「(全国)民事慣例類集」として編纂された)。やがて10年近い年月をかけて作成された草案(ただし、現行民法典の親族、相続に相当する部分については、日本人が作成した草案)を元に、旧民法が起案・制定され、1890年に2回に分けて公布された。
[編集] 民法典論争
しかし、編纂の過程で旧民法の内容に対する批判が高まり、公布された後も、施行を延期するか断行するかについて、激しい論争が展開された。
既に1889年頃から英米法学者を中心とした民法・商法の施行延期論が存在していたが、学術的な視点からは、旧民法が自然法思想に立脚していたことに対して、法の歴史性・民族性を強調した歴史法学からの批判、内容的なものとしては、日本古来の家族制度を始めとする日本の伝統・習慣にそぐわないという批判があった。特に延期派であった穂積八束が発表した「民法出デテ忠孝亡ブ」と題した論文は、そのタイトルのため最も注目を集めた。
論争の結果、延期派が勝利し、1892年に帝国議会において民法の施行を延期する旨の法案が可決された。その後新設された法典調査会で、穂積陳重、富井政章、梅謙次郎が旧民法の修正を基本としつつ、ドイツ民法の草案や各国の民法をも参照して、現行の民法(明治29年法律第89号)が起草された。
この論争の意義については、かつては学問的な論争と考えられていたが、実際には言いがかり的な論争も多く、中心は政治的・派閥的な争いとする見方も強い。