永井直敬
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永井 直敬(ながい なおひろ)は、江戸時代中期の譜代大名。浅野長矩改易後、播磨赤穂藩主となった人物である。
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時代 | 江戸時代前期から中期 | |||
生誕 | 寛文4年(1664年) | |||
死没 | 正徳元年6月3日(1711年7月18日) | |||
別名 | 大学(通称) | |||
戒名 | 正功院殿傑真寛英 | |||
官位 | 従五位下、伊賀守、伊豆守 | |||
藩 | 河内国内→下野烏山藩主 →播磨赤穂藩主→信濃飯山藩主 →武蔵岩槻藩主 |
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氏族 | 永井氏 | |||
父母 | 父:永井尚庸、母:太田資宗の娘 | |||
妻 | 正室:松平典信の娘、 継室:永井直右の娘 |
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子 | 6男2女(永井尚平、永井直陳、 永井尚方、内藤頼由、娘(土方豊義室)、 娘(諏訪忠尋室、後に新庄直祐室)) |
寛文4年(1664年)、永井尚庸の嫡男として生まれる。延宝5年(1677年)、父の死去により後を継ぎ、同年閏12月26日に従五位下、伊賀守に叙任する。貞享4年(1687年)、那須氏が改易されたため、代わって河内国内に所領を持っていた直敬が烏山藩主として赴任する。元禄7年(1694年)11月15日に寺社奉行となり、後に奏者番も兼任する。
元禄14年(1701年)9月1日、浅野長矩が改易された後を受けて、3000石加増の3万3000石で赤穂藩主となる。しかし寺社奉行として幕政に参与していたことから、藩政は家臣団によって行なわれていた。宝永元年(1704年)10月1日には若年寄となる。宝永2年(1705年)、赤穂藩で大洪水が発生して4000石を失う大被害を受けた。同年9月22日に伊豆守に叙任する。
宝永3年(1706年)1月28日に信濃飯山藩に移封される。宝永8年(1711年)2月11日に武蔵岩槻藩に移封されるが、正徳元年(1711年)6月3日、岩槻にて死去した。享年48。後を次男の尚平が継いだ。墓所:東京都中野区上高田の功運寺。
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