池田慶政
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池田 慶政(いけだ よしまさ、文政6年(1823年) - 明治26年(1893年)3月4日)は、江戸時代末期の大名。備前国岡山藩の第8代藩主。父は豊前国中津藩主・奥平昌高(慶政は四男)。正室は第7代藩主・池田斉敏の養女(池田政善の娘)。子に政時、萬寿子(池田茂政室)、娘(池田政保室)。官位は従四位下、内蔵頭、左近衛権少将。
[編集] 経歴
幼名を七五郎。名は慶政のほか、昌朝、道政などがある。文政6年(1823年)、奥平昌高の四男として江戸藩邸で誕生した。天保13年(1842年)、藩主・斉敏の養嗣子となった1ヵ月後に斉敏が急死したため、斉敏の養女と結婚した上で家督を継承した。嘉永6年(1853年)、ペリー来航で幕府に対策を諮問されたとき、「鎖国の祖法をあくまで厳守すべきだ」と主張した。その一方で、幕命に従って藩士を房総半島などに派遣し、海防に当たらせている。
そして塩や砂糖の専売強化や質素倹約令などによる財政政策、洋式軍制の導入などを行なったが、あまりに厳しすぎる改革を行なったうえ、改革で部落差別などが起こったため、安政3年(1856年)に藩内で渋染一揆が発生してしまい、改革は失敗に終わった。
文久3年(1863年)、病気を理由に家督を養嗣子の池田茂政に譲って隠居した。これは、尊王派であった藩士・江見陽之進の進言に従ってのことである。ちなみに茂政は水戸藩主・徳川斉昭の九男である。晩年は岡山に隠棲し、明治26年(1893年)、71歳で死去した。神号は大名廣足慶政命。墓地は岡山県備前市和意谷池田家墓所。
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