沼間守一
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沼間守一(ぬま もりかず、しゅいち,1843年12月2日-1890年5月17日)は、江戸幕臣出身の政治家、ジャーナリスト。雅号・不二峰楼主人、弄花生
[編集] 略歴
- 1843年12月2日、江戸牛込にて幕臣・高梨仙太夫の第2子として生まれる。幼名:慎次郎
- 1849年、沼間平六郎の養子となる。 漢学を儒者・杉原心斉に学ぶ。
- 1859年、17歳で養父が長崎奉行属員になり同行、イギリス人ゼラ-ルに英学を学ぶ。
- 1861年、江戸に帰郷、軍艦頭取矢田堀鴻に海軍技術を学ぶ。同年幕府の命で横浜の米医ヘボンに入門。
医学より英語(兵法)に親しむ。
- 1865年、幕府陸軍伝習所に入所。フランス士官シャノアンらに仏式兵法を学ぶ。
御指図役頭取(大尉、中隊長クラス)から歩兵頭並(少佐、大隊長クラス)に昇進。第二伝習兵隊長として役1500人の教練につく。
- 1868年(明治元年)1月、歩兵奉行並に任ずる。3月、仕官約20名を連れ兄・須藤時一郎とともに会津に脱走。会津藩で遊撃隊(銃隊)を編成する。4月、会津を出て日光方面にて大鳥圭介とともに板垣退助らの西軍と戦う。7月、会津に戻り遊撃隊を伝習する、下旬庄内藩へ移動、農兵を訓練する。9月、に庄内藩降伏のため12月江戸へ護送される。「ああ たった六十余州か けさの春」の句を読む。
- 1869年、放免後、日本橋瀬戸物町に英学指南所を開くが「政府転覆のため人を集めているのでは」と疑われ一時捕縛される。5月、板垣、谷干城の紹介で土佐藩邸兵士教授方となる、英語も教授したとも言われるが明治時代以降の回想に限られており当時の史料からは英語に関する記述が乏しい。
- 1871年(明治4年)7月、廃藩置県、土佐藩邸を出る。横浜にて一年間生糸商・両替商を営む。「武士の商法」で赤字を出す。
- 1872年4月、大蔵大輔井上馨の推薦で租税寮七等出仕、横浜税関詰となる。7月、物議をかもしてばかりの沼間をもてあました井上は司法省の江藤新平に彼を推薦する。司法省七等出仕となる。欧州派遣され各国を巡る。
この頃幼名慎次郎から「守一」に改名したとされる(明治2年に改名の可能性もある)
- 1873年9月、帰国。11月に司法省六等出仕に昇進。同士とともに嚶鳴社の前身・法律講習会を設立する。
- 1874年2月、少判事に任じられる。
- 1875年5月、五等判事に任じ大阪裁判所詰を命じられるが受けず。7月、河野敏鎌の推薦で元老院権大書記官となる。9月、鶴岡事件調査のため同県に出張する。11月帰京。
- 1877年、西南戦争に際し「義勇兵募集演説会」を開く。
- 1878年、法律講習会を嚶鳴社と改称。
- 1879年、元老院に辞職を申し出て雇い名義で隔日出仕するが8月に官吏の政談演説が禁止されたので雇いも辞職。10月、『嚶鳴雑誌』創刊。11月18日、横浜毎日新聞を買いうけ東京京橋区西紺屋町に東京横浜毎日新聞本局を開く。11月、東京府会議員に選出される。
- 1880年1月23日、臨時府会で副議長に当選。 12月、自由党準備会に加わる。
- 1881年3月、自由政党創立委員となり国会期成同盟の責任者の一人となる。8月、東京横浜毎日新聞で官有物払い下げ案可決の一報を報道する。8月25日、新富座にて「官有物払い下げ反対」の大演説会を開催する。9月~11月まで東海地方、東北地方を遊説してまわるが途中脳病を発病。
- 1882年4月、立憲改進党結成、嚶鳴社一派を率いて参加。 7月、政府から政治結社の認定を受け嚶鳴社を解散する。7月、東京府会議長に当選。
- 1884年12月、立憲改進党解党に反対するが大隈重信、河野敏鎌ら幹部が脱党。沼間は党を孤守する。
- 1887年9月、浅草井生村楼で旧自由党と立憲改進党合同の「大同団結大会」が開かれる。星亨派の壮士と衝突、重症を負わされる。
- 1888年5月広告社をつくる(のち湯沢精司が社長就任)
- 1889年2月11日帝国憲法発布式典に東京府会議長として参列。
- 1890年5月脳病に肺炎を併発し死去。 戒名:英光院操守一貫大居士
[編集] 参考文献
石川安次郎「沼間守一」(1901年) 時事通信社「三大言論人集・第三巻 福地桜痴、沼間守一」(1962年)