津々見忠季
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
津々見忠季(つつみただすえ、? - 承久3年6月14日(1221年7月27日))は鎌倉時代初期の武将。後に若狭忠季と名乗る。若狭国守護職。若狭島津氏の祖。通称次郎、左兵衛尉、若狭兵衛入道。惟宗広言の子・薩摩国守護職島津忠久の弟と伝える。島津家一門。
遠敷郡津々見保の地頭職に補任されたことから、最初、津々見忠季と名乗る。建久7年(1196年)9月1日、源頼朝は、没官領である遠敷・三方両郡の所領25か所を忠季に与えた。忠季はここで若狭守護となったと考えられる(「守護職次第」)。これ以後、忠季が若狭という国名を苗字としたのは、若狭国の中心に立つこととなった自らの立場に対する自覚によるものであろう。
正治元年(1199年)には梶原景時を弾劾する連判状に名を連ねた。建仁3年(1203年)比企能員の変に連座して所職を没収される。承久2年(1220年)、若狭国守護職に復す。翌年、承久の乱が起こると鎌倉方に属し活躍したが、6月14日宇治川における合戦の際、急流のため渡河に失敗して死去。戦後、甥の島津忠時が若狭国守護職を継いだ。子孫は、三方郡に本拠地を構えたことから三方氏を名乗り、室町初期に若狭守護であった一色氏の被官となった。一色氏が若狭守護を解任されると三方氏も一色氏に付き従い、南山城に本拠地を移し、諸城の城主をつとめたりした。
『税所次第』、『守護職次第』から、若狭島津氏の4代までの事跡が伺える。
- 忠季
- 四郎忠清(定蓮)、次郎兵衛(兵衛二郎?)
- 又太郎、忠兼(直阿)
- 光忠