津軽信著
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津軽 信著(つがる のぶあき、享保4年2月27日(1719年4月16日) - 延享元年5月25日(1744年7月5日))は陸奥国弘前藩の第6代藩主。父は第5代藩主・津軽信寿の長男・津軽信興(信著は長男)。母は近衛家煕の養女・梅応院。正室は有馬則維の三女・浄心院。側室に円受院がいる。子は津軽信寧(長男)、仙石好古(次男)。官位は従五位下、出羽守。
享保4年(1719年)2月27日生まれ。幼名は勝千代。享保15年(1730年)、父の信興が早世したため、翌享保16年(1731年)5月16日、祖父で先代藩主の津軽信寿の隠居により、家督を譲られて藩主となった。しかしその治世期は津波・洪水・大地震から凶作などの天災が相次ぐなど、多難を極め、藩財政も悪化した。このため、信著は倹約や借米制度を中心とした藩政改革を断行する。
天災で困窮する農民に対しては、富豪から御用金を徴収することで救済し、訴訟箱を設置して広く意見を求め、さらに蘭学を中心とした文武を奨励するなど、様々な改革に着手した。いったんは成功に見えた藩政改革であったが、延享元年(1744年)5月11日に弘前で大火が起こったうえ、直後の5月25日に信著が26歳の若さで病死したため、改革は頓挫してしまった。死後、家督は長男の信寧が継いだ。
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