津軽信寧
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津軽 信寧(つがる のぶやす、1739年4月5日(元文4年2月27日) - 1784年2月22日(天明4年閏1月2日))は、江戸時代後期の大名。陸奥国弘前藩(津軽藩)の第7代藩主。第6代藩主・津軽信著の長男。正室は越前松平明矩の娘。子に津軽信明(長男)、娘(阿部正倫継室)、娘(堀親忠正室)、娘(堀親忠継室)、那須資明室ら。官位は従五位下。越中守。
延享元年(1744年)、父・信著の後を受けて藩主となった。彼の治世中、弘前藩は飢饉が相次いで領地は荒廃し、借金は35万両にも及んでいた。しかも重臣である3名が商人と結託して藩内の米を買い占めて江戸へ売却して暴利をむさぼるなど、不正も起こった。そのため、天明元年(1781年)から起こった天明の大飢饉は藩にとどめを刺すこととなる。このため信寧は財政改革に乗り出そうとしたが、その矢先の天明4年(1784年)に急死し、後を長男の信明が継いだ。
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