浅野長武
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浅野 長武 (あさの ながたけ、寛文3年(1663年) - 正徳2年1月11日(1712年2月17日))は江戸幕府の旗本。播磨赤穂藩浅野家の分家にあたる。また大石内蔵助の又従兄弟でもある。通称は左兵衛(さへえ)。
赤穂藩浅野家の江戸家老大石頼母良重(大石内蔵助良雄の大叔父)の次男として誕生(長男は浅野長恒)。母は赤穂藩主浅野内匠頭長直(浅野内匠頭長矩の祖父)の娘。はじめ大石酒之允と名乗ったが、母方の血統ゆえに貞享元年(1684年)4月に赤穂藩浅野家の分家旗本の浅野内記長賢(3500石)の婿養子に迎えられ、浅野左兵衛と改名した。
貞享3年(1686年)3月1日、はじめて将軍徳川綱吉に謁見。12月6日、養父長賢の隠居で家督を相続した。元禄11年(1698年)4月1日、御書院番の組頭となり、12月29日には布衣の着用を許された。元禄14年(1701年)3月15日には宗家の浅野長矩の刃傷に連座して出仕を禁止された。5月6日に出仕は許されたものの将軍拝謁は許されず、6月25日になってようやく将軍拝謁も許された。元禄15年(1702年)12月19日、長武の又従兄弟にあたる大石内蔵助が吉良上野介を討ち取った事件で再び出仕を止められたが、元禄16年(1703年)3月8日にはゆるされた。正徳2年(1712年)正月11日に持弓頭に就任したが、9月21日には死去した。享年50。妻は浅野長賢の娘のちに甲斐庄飛騨守正親の娘。子に浅野長時と、浅野長豊に嫁いだ娘がいる。
カテゴリ: 浅野氏 | 江戸幕府旗本 | 元禄赤穂事件関係人物 | 1712年没