渡辺幸庵
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渡辺 幸庵(わたなべ こうあん、天正10年(1582年) - 宝永8年(1711年))は、元徳川忠長家臣。諱は茂、通称は久三郎、号は幸庵。柳生新陰流を修めた剣の使い手でもある。
摂津国出身。若い頃より徳川家に仕えて駿河国に入り出仕。関ヶ原の戦いの際は伏見城の守備に当たる。徳川秀忠の代に、忠長の傅役に選ばれるも、忠長が領地没収の上切腹させられた後は浪人の憂き目に遭う。幸庵と名乗り諸国巡礼の旅に出る。
後年、前田綱紀の元へ身を寄せると旅の経験を加賀藩士に『渡辺幸庵対話』という本にまとめさせる。本の中では柳生宗矩と宮本武蔵(本の中では竹村武蔵と書かれており、高弟の竹村与右衛門と混同している)にふれる記述もあり、「但馬にくらぶれば、碁にていえば井目(せいもく)も武蔵強し」と武蔵の方が実力は上だと評している。
宝永8年(1711年)、130歳という高齢で死去。